これまで主に磁化移動による相関スペクトルを見てきたがここでは飽和や照射といった手法を用いる一次元NMR法、ホモデカップリング、NOE(差)、SPTを取り上げる。
I=1/2の二つの核A、Bがあり互いのケミカルシフトが充分離れていると仮定する。それぞれの核スピンについてαかβかの二通りがあり、ふたつのスピンの組み合わせは4通りある。それぞれについてのエネルギー準位をE1からE4までとし、それらのエネルギー差A1、A2、X1、X2に相当する周波数のところにシグナルが出る。AとXの核に相互作用がない場合は、Aの核がαからβに変化するA1、A2の二つの遷移が、もう一方のXがαであるかβであるかに拠らず同じであるからA1=A2となりシグナルは一本しか出ない。
AとXの核に相互作用がある場合、Aの核にはもう一方のXがαであるかβであるかの影響が現われている。パウリの排他原理と同様、同じ向きの相互作用は不安定、逆向きは安定と考えると、αα、ββは相互作用が無いときに比べてエネルギーが高く(E1<E1', E4<E4')、αβ、βαは相互作用が無いときに比べてエネルギーが低く(E2>E2', E3>E3')なる。こうなるとA1とA2が等しくなくなり、シグナルが二本出るようになる。エネルギーを周波数で表せば、J値が正のとき(通常vicinalでは正、geminalでは負)、A1=νA-J/2, A2=νA+J/2, X1=νX-J/2, X2=νX+J/2となる。J値が負のときはA1とA2、X1とX2のエネルギーの大きさが入れ替わる、つまり周波数も入れ替わる。
de + couplingつまりカップリングをなくす実験のことであり、これにより複雑に分裂したスペクトルを簡単にしたり、カップリングの相手を調べたりできる。
デカップリングは、取り込みの間に特定の核(X)を共鳴周波数で照射してα、β間の早い交換を引き起こす。これによってAはカップリングしている相手のXの状態がαかβかを区別することができなくなりカップリングのない状態と同じになってしまう。データ取り込み出ないときにも照射を続けていても結果は変わらないので上図では照射をずっと続けている。デカップリングには色々な種類がある。
プロトンのホモデカップリングでは、照射した核Xはシグナルが無くなり、カップリングしていた相手AはXとのカップリングが無くなりダブレットからシングレットへ、あるいは他の核とのカップリングがあればそれは残る。今、観測しているほうの核Aが他のプロトンのシグナルにうもってしまって形の変化が観測できない場合、照射して得られるスペクトルと照射しないスペクトルを差引すれば、Aを覆っていた、変化しないシグナルは消え、Aのみ、照射前後のシグナルの形が正と負に現われる。実際には照射しないスペクトルを引くのではなく、シグナルのある位置とない位置(レファレンス位置)を交互に照射し、それにつれてレシーバーの位相を正負にすることでFID段階で差を積算してゆく。
これまでINEPTからデカップリングまで、二つの核間にスピン-スピンカップリングが存在する場合を見てきた。NOE現象を引き起こすのはこれとは違う相互作用、双極子-双極子相互作用である。ここの読者諸君は良く知っているように、NOEはカップリングしていない核同士でも観測される。(していても観測される)。カップリングと同様、エネルギー準位図を描き、今度はエネルギー準位の変化ではなく、それぞれのエネルギー準位にある核スピン占有数の変化に注目する。系全体の核の個数をN個とし、熱平衡状態ではAについてもXについても、αのほうがβよりδ個多いのでそれぞれのエネルギーレベルの占有数は下図のようになる。デカップリングは取り込みの間に照射していたのに対し、NOEでは観測パルスをかける前にXを弱く照射しこのシグナルを飽和させる、つまり、E1→E2(X1)、E3→E4(X2)の占有数の差がなくなりシグナルは消失する。E1→E3(A1)、E2→E4(A2)の占有数の差はδで、照射前と変わらない。
この系は熱平衡状態では無くなってしまったので、元に戻ろうとする。このとき、AとXが空間的に近接しており双極子-双極子カップリングが存在すると緩和経路としてE4→E1(W2)やE2→E3(W0)という禁制遷移による交差緩和がおきる。W2がメインであれば、E4の占有数は減ってE1の占有数が増える。このため、Aのシグナル強度(E1→E3(A1)のあるいは、E2→E4(A2)の占有数の差)が照射前に比べて増大する(正のNOE)。W1がメインであれば、E2の占有数は減ってE3の占有数が増えるのでAのシグナル強度(E1→E3(A1)のあるいは、E2→E4(A2)の占有数の差)が減少する(負のNOE)。
NOEによる強度変化を調べるのにはホモデカップリングのときに使ったような差スペクトルが便利である。照射して得られるスペクトルから照射しないスペクトルを差引すれば、変化しないシグナルは消え、飽和した照射位置は負のシグナル、強度の増加したシグナル(正のNOE)は正に、強度の減少したシグナル(負のNOE)は負に現われる。実際には照射しないスペクトルを引くのではなく、シグナルのある位置とない位置(レファレンス位置)を交互に照射し、それにつれてレシーバーの位相を正負にすることでFID段階で差を積算してゆく。
では、次にスピンスピンカップリングのある系に戻り、一つの遷移を飽和させることを考えてみる。最初に示したスピンスピンカップリングのある核AとXのエネルギー準位図に占有数を書き込んでおく。一つの遷移X1'を飽和させると、E1', E2'の占有数は同じになり両方ともN+δ/2となる。このとき他の遷移の占有数の差は、X2'は照射前後でδのまま変化なし、A1'はδからδ/2へ減少、A2'はδからδ3/2に増加する。これまでと同様差スペクトルとすれば変化は明瞭となる。
ホモデカップリングの照射はケミカルシフト位置をに当て、そのパワーは単一遷移を飽和させるパワーに比べて強いため、近接するほかのシグナルにも影響が及ぶ。ケミカルシフトが近いシグナルのひとつだけを照射することは困難である。また、照射位置と見たいシグナルのケミカルシフトが近い場合もきれいな結果が得られない。なお、照射位置に近いシグナルは照射位置から遠ざかるように現われるため、照射位置付近は差を取った場合に引き残りが出る。レファレンス位置の選定にも注意が必要である。これらが問題になる場合にはより弱いパワーで照射するSPT差スペクトルを測定するのが良い。
NOE、SPTなどの照射はケミカルシフト位置ではなくひとつの遷移の位置ちょうどに当てる。などでデカップラーの出力を最大限小さくしても照射パワーが強すぎて、もっと飽和の選択性をあげたい場合には、照射にDANTEパルストレインを用いる。これは{照射-待ち時間}を繰り返しておこなうことで照射の及ぶ領域を狭くでき、ケミカルシフトがかなり近接している場合でも選択的に飽和させることができる。
NOEとSPTは同じパルスシーケンスで測定する。分裂したシグナルを飽和させてNOE差スペクトルを測定しようとするとSPTによって妨害されることがしばしば起こる。このような場合にNOEを観測するのかSPTを観測するのかを区別するのは観測パルス角度である。一つの遷移を飽和させてたのち正確な90度パルスをかけると、同じ核のほかの遷移も飽和されたかのようなスペクトル(SPTのないNOEスペクトル)が得られる。正確な90度パルスを実現するためには、正確にパルス幅を測ることのほか、コンポジットパルスを使うのが簡単である。いっぽうSPTは観測パルスが30度付近で最も効率良く観測されることが知られている。分裂したシグナルからのNOEを観測する際に、一つの遷移を飽和させて正確な90度パルスをかける方法のほか、全遷移を短時間ずつ順々に照射することも行われる。
NOEが正となるか負となるかは照射核、観測核の磁気回転比、分子相関時間τC(分子の運動しにくさ、一般に高分子ほどτCが大きい)と外部磁場強度に依存する。NOEがゼロになることがある点に注意する。これに対し次の項で扱うROEはτCによって強度がゼロとなることはない。