では、実際の1H-NMRスペクトルを見てみよう。これは、酢酸エチルのchloroform-d溶液の500MHz 1H-NMRスペクトルである。
例)
右端に測定条件が書かれている。パラメータの呼び方は機種により異なる。これらは普段余り気にすることはないかもしれないが、二次元測定や特殊測定のときに必要になるので切り離したりしないでデータといっしょに保存しておく。
1H-NMRスペクトルで注目すべきパラメーターは磁場強度である。この例では BF1:500.1300000MHz であり、測定に用いた装置は500MHzの装置であったことがわかる。SW_hは測定したスペクトル幅である。この例では8064Hz、磁場強度が500MHzなのでスペクトル幅をppmに換算すると
8064 / (500*10^6) = 16*10^(-6)
により16ppmであり、ここに描かれている範囲よりもう少し広く測定してあった(がシグナルがない)ということがわかる。
NSは積算回数、DSは安定性のために同じ測定と条件を与えてデータは取り込まなかった回数である。一般的な低分子有機化合物の1H-NMRでは積算回数は数回〜数十回程度が普通であり、あまり多いときは試料に問題があったかもしれないことを疑ってみる。たとえば量が少ないなど。TEは試料温度で特に断わりがなければ室温で加熱も冷却もしていない。
NAME, EXPNO, PROCNOは保存したデータ特定するファイル名である。Date_d, Date_tは測定あるいはデータ処理を行った日時である。過去のデータを探すときの手がかりとなる。
同じ環境にあるプロトンは同じ共鳴周波数を持っている。環境が同じ一組のプロトンは化学的に等価であるという。このため、NMRスペクトルのシグナルの数から、その分子に何種類のプロトンがあるかがわかる。この場合は4種類。このうち最も低磁場(左)のものは、溶媒に用いたCDCl3に混在するCHCl3である。
化学的に等価であるためには、立体化学的にも等価である必要がある。酢酸エチルの場合は、aの3っつの1H、cの2つの1H、dの3っつの1Hはそれぞれ等価である。
NMRシグナルの面積はシグナルを与えるプロトンの個数に比例する。ピークを積分し曲線で表した(上図で赤線で表した)高さが積分値で、この例では2:3:3になっている。このことだけから、積分比2のシグナルが、2個の等価なプロトンを持つcであることがわかる。
そのプロトンがどんな環境にあるかを表している。ケミカルシフトδ(ppm)は、磁場強度の10^-6(ppm)で表すとNMR吸収の位置は外部磁場強度に非依存(何メガの装置で測定しても同じ)となる。化学的環境とケミカルシフトの関係はデータ集などに掲載されている。酢酸エチルの場合は、酸素に隣接しているcがもっとも遮蔽が小さく低磁場に現われると予想される。
ケミカルシフトの基準は通常TMS(tetramethylsilan)を0ppmとする。水系溶媒ではTSP等を用いる。重水素化溶媒の残留プロトンを基準にすることもある(Silverstein第5版 p.209等)。
スペクトルを拡大してみると、ピークが分裂しているのが見える。あるプロトンは、その隣にあるプロトンによってシグナルが分裂するからである。一般にn個の等価なプロトンによってNMRシグナルはn+1個のピークに分裂する。分裂の幅は結合定数(カップリングコンスタント、J値)等といい、Hzで表す。磁場強度に依存しない値である。
通常観測されるのは、geminal、vicinal、遠隔カップリング(アリル、ホモアリル、メタ)などである。非等価な隣接プロトン間にのみスピン-スピン結合が観測される。
酢酸エチルの例では、aは隣が四級炭素であるのでカップリングは観測されない。cのメチレンは、隣にメチル基dがあり3個のプロトンとのカップリングにより4本に分裂する。dのメチルは、隣にメチレンcがあり2個のプロトンとのカップリングにより3本に分裂する。互いの分裂幅は等しくなる。このことから、最も高磁場側のシグナルがd、二番目のシグナルがaだとわかる。
ケミカルシフトやカップリング定数を読むのには、Tableを使う。
============================================================== Peak List Date: 5.03.2000 Time: 12:28 File Name: f:\xwin_nmr\picc0203\14\pdata\1\1R Peak Results saved in File: Peak Picking Parameter: Peak constant PC:1.00 Peak Picking results: Peak Nr. Data Point Frequency PPM Intensity %Int. 1 20255 2045.51 4.0899 39964136 8.4 2 20284 2038.37 4.0757 117487840 24.8 3 20313 2031.23 4.0614 118265632 25.0 4 20342 2024.10 4.0471 40672152 8.6 5 24521 995.60 1.9907 473578944 100.0 6 26085 610.69 1.2211 134338576 28.4 7 26114 603.55 1.2068 258023504 54.5 8 26143 596.41 1.1925 130452464 27.5 ==============================================================
ノイズにもピークが振られていることがあるので、強度%INTとPPMに注意する。
cと帰属した低磁場側の4重線はPeakNr.1から4までである。そのPPMの平均値4.07ppmがこのシグナルのケミカルシフト位置である。通常小数点以下2桁で表す。その分裂幅はFrequencyの差を読む。1と2の間が7.14Hz, 2と3の間が7.14、3と4の間が7.13で平均7.1Hz(通常小数点以下1桁で表す)。
aと帰属した一重線のシグナルはPeakNr.5でケミカルシフトは1.99ppmである。
dと帰属した高磁場側のシグナルはPeakNr.6から8までである。中心のPPM1.21ppmがこのシグナルのケミカルシフト位置である。分裂幅はFrequencyの差6と7の間が7.14Hz, 7と8の間が7.14で7.1Hz。
以上をまとめて表にする。一重線はs,二重線はd,三重線はt,四重線はq,と表す。
position | δH(ppm) | coupling | (Hz) |
---|---|---|---|
a | 1.99 | s | . |
c | 4.07 | q | 7.1 |
d | 1.21 | t | 7.1 |
下図は、リンゴ酸の1H-NMRスペクトルの拡大である。
Peak List Date: 26.06.2000 Time: 15:37 | |||||
File Name:f:\xwin_nmr\picc99pa\1\pdata\1\1R | |||||
Peak Results saved in File: | |||||
Peak Picking Parameter: | |||||
Peak constant PC:1.00 | |||||
Noise:134407 | |||||
Sens. level:537626 | |||||
Peak Picking region: | |||||
Start(ppm) | Start(Hz) | End(ppm) | End(Hz) | MI(%) | MAXI(%) |
4.31 | 2157.9 | 2.40 | 1198.1 | 12.23 | 73.67 |
Peak Picking results: | |||||
Peak Nr. | Data Point | Frequency | PPM | Intensity______ | ______%Int. |
1 | 19958 | 2126.89 | 4.2527 | 141046224 | 67.7 |
2 | 19984 | 2120.49 | 4.2399 | 208207728 | 100.0 |
3 | 20005 | 2115.32 | 4.2295 | 163535280 | 78.5 |
4 | 23307 | 1302.67 | 2.6047 | 113928056 | 54.7 |
5 | 23323 | 1298.73 | 2.5968 | 125968656 | 60.5 |
6 | 23371 | 1286.91 | 2.5732 | 169532448 | 81.4 |
7 | 23388 | 1282.73 | 2.5648 | 184205024 | 88.5 |
8 | 23605 | 1229.32 | 2.4580 | 162916016 | 78.2 |
9 | 23636 | 1221.70 | 2.4428 | 164584256 | 79.0 |
10 | 23669 | 1213.57 | 2.4265 | 112593672 | 54.1 |
11 | 23700 | 1205.94 | 2.4113 | 109450896 | 52.6 |
ケミカルシフトから判断して、水酸基の結合している2位のメチン水素は4.24ppm付近のシグナルであろう。これは隣(3位)がメチレンであるが分裂はきれいな3重線とはなっていない。その理由はメチレン水素の隣(2位メチン)が光学活性であるためにメチレンが非等価に現われ、メチン水素とのカップリング定数も異なるからである。1H-NMRスペクトルの低磁場側から順にHa, Hb, Hcとしてそれぞれの分裂様式を解析すると、Hbは15.8Hzと4.2Hzのダブルダブレット(dd)(勝ち抜き戦のような図を上から順に書き、最初に15.8Hzで分裂させ、そのそれぞれを4.2Hzで分裂させる。何Hzで分裂させるかの順番は変えても同じ結果となるが大きいほうからやったほうが図が簡単である), Hcは15.8Hzと7.6Hzのダブルダブレットである。このことから、Haは7.6Hzと4.2Hzのダブルダブレットと予想され、そのような図を書くと、中央の二本の間隔が1.4Hzとせまく実スペクトルではこれが分離していないことがわかる。水素同士のカップリングで15.8Hzというのは非等価メチレン同士のジェミナルカップリングである。
以上をまとめてケミカルシフト、カップリングの表を作成せよ。→回答例
上記リンゴ酸にはHa, Hb, Hcのほかに水酸基のプロトンがあるが、これはスペクトルには現われていない。このようなヘテロ原子に結合したプロトンは溶媒中の水との交換によりしばしば観測されない。また、NMR測定溶媒に重水や重メタノールを用いた場合はその重水素と交換して観測されない。
その核の置かれた化学的環境とケミカルシフトの相関についてまとめた表はデータ集などに必ず載っている。これらのうち最も基本的なSilverstein第6版図4.21(第5版図4.20)について覚えておき、もっと詳しい表は必要に応じて使えるようにしておこう。また、例外があることも覚えておこう。
例として、バニリンの1H-NMRスペクトルを見てみよう。「プロトンケミカルシフトの一般領域」の図から、9.73ppmのシングレットがアルデヒドプロトン(H-7)、6.9-7.5ppm付近がベンゼン環のプロトン(H-2, H-5, H-6)、3.82ppmのシングレットがH-8であろう(表にはα-一置換脂肪族と書いてある。注目しているプロトンが結合している炭素に置換基(この場合は-O-ベンゼン環)が一つ結合しているということである)。
つぎに、もっと詳しい表を見てみよう。バニリンのH-8のケミカルシフトについてはSilverstein第6版p.199付録A(第5版p.195付録A)を使う。この表は、いろいろな置換基(Y)が結合した炭素(α炭素)がメチン、メチレン、メチルである場合の、それぞれのプロトンのケミカルシフトの平均的な値をメチンは黒丸二つ、メチレンは白丸二つ、メチルは太い縦線で示している。注目しているH-8からみて置換基は-O-ベンゼン環であり、表ではM-OPhにあたる(Phは芳香環を表している。これに対しRは脂肪族の置換基)。H-8はメチルプロトンなので表から「太い縦線」で表してある3.8-3.9ppmが読み取れ、実測値と良くあう。
付録A-2は、いろいろな置換基(Y)のもう一つ隣の炭素(β位)に結合したプロトンへの影響を表している。置換基Yが結合した炭素から一つ離れた炭素(β位)がメチン、メチレン、メチルである場合のプロトンのケミカルシフトの平均的な値を付録Aと同様に示している。
付録Bは第5版から第6版になるとき大幅に書きかえられている。
第5版では、図B-1に二つの置換基(YとZ)の結合したメチレンプロトンのケミカルシフトの平均的な値を示している。二つの置換基を縦と横に取りその交わったところからケミカルシフトを読む。それぞれの置換基の効果(表B-1)をもとに計算しているが、実測値とこれによる計算値が一致しない場合、実測値を上段に載せている。
これらを拡張し、第5版付録B-2にある一から三置換のメチル、メチレン、メチンプロトンのケミカルシフトを計算するための置換基効果の表が作られた。置換基がα位あるいはβ位に結合したときの、赤で示したプロトンへの効果をそのプロトンがCH3かCH2かCHの場合に分けて数値で示してある。この効果を、標準値CH3δ0.87かCH2δ1.20かCHδ1.55に加算してプロトンケミカルシフトの計算値とする。
第6版では二つの置換基(YとZ)の結合したメチレンプロトン(またはメチル)のケミカルシフトは表B-1を用いて計算する。メチルの場合、Zを-Hとして計算する。表からよみとった各置換基定数をメタンのケミカルシフト0.23に加算する。
メチンプロトンのケミカルシフトは三個の置換基の置換基定数を表B-2(a)から読み取り、基準値2.50に加算する。ただし、置換基のうち少なくとも2つ(Y,W)がアルキル基など極性の低い基の場合、表B-2(b)から置換基Zをもつイソプロピル誘導体のケミカルシフトを読み取り、B-2(c)によってY, Wの効果を補正する。
以上の表から酢酸エチルのそれぞれのプロトンのケミカルシフトを読み取り、実際のスペクトルと一致することを検証してみる。
付録Cは脂環式および複素環式化合物のケミカルシフトである。
付録Dは不飽和系および芳香属化合物のケミカルシフトである。置換エチレンの化学シフトは、脂肪族化合物で行ったのと同様に計算できる。置換基Rが、gem, cis, transのそれぞれの位置にあった場合にプロトンのケミカルシフトに与える効果(表D-1)を、基準値5.25に加算する。
一置換ベンゼンのケミカルシフトは図D-1から読み取れる。
ベンゼン環の水素のカップリング定数は、オルトカップリングで6-9Hz、メタカップリングで1-3Hz程度、パラ位とのカップリングは通常観測されない。これにより多置換ベンゼンは特徴的なカップリングパターンから置換様式を推定できることがある。バニリンの2,5,6位のプロトンの形を、リンゴ酸の時と同様な絵を書いて推定してみよ。
→回答例
上図はバニリンの1H-NMRスペクトルの芳香環領域の拡大図である。上で行ったカップリングパターンの推定によりシグナルを帰属し、これまでの結果と合わせて全プロトンのtableを作成せよ。
→回答例
バニリンのH-5のダブレットシグナルはH-6のある側のほうがわずかに強度が大きい。H-6のダブルダブレットの大きいカップリングによるほうの分裂もH-5のある側が少し高い。この現象をルーフ効果といい、ケミカルシフト差が小さいほど大きい。ケミカルシフト差がもっと小さくなると、複雑な形状を示すようになり、このような一次解析は不能となる。
メタカップリングのような小さな分裂は、実スペクトルではピークが分離せず太くなる(ブロードニング)だけのこともある。その場合も同じ積分値のほかのピークよりピーク高さが低くなっていることから見分けられることもある。
それぞれの化合物のプロトンシグナルのカップリングパターンを予測せよ。
→回答例
3本の結合を介したプロトン間のカップリング定数は、その3結合の作る二つの平面のなす角(ニ面角、φ)に依存し、0度、180度のとき大きく、90度付近では小さい。ニ面角を見やすくするのに右のような図(Newman投影図)を使う。この図では、左の図の二本目の結合を白い丸で表し視線と平行におく。例えば、β-D-glucose(下図左)のC2を手前、C1を奥にして描いた図が下図中であり、C2を手前、C3を奥にして描いた図が下図右である。
α-D-glucoseで同様にC2を手前、C1を奥にした図と、C2を手前、C3を奥にした図を描け。→回答例
βおよびα-D-glucoseで、ニ面角が60度、180度のときのカップリング定数がそれぞれ4Hz, 9Hzとして、H2のピーク形を予測せよ。→回答例
以下のような場合に3つ以上の結合を介したプロトン−プロトン間のカップリング定数が観測されることがある。
ベンゼン環の置換様式
Jカップリングの値
遠隔スピン結合