1.研究室のなりたちと研究・教育成果
北海道大学部農学部のなかで畜産学が開講され、橋本左五郎先生によって乳および乳製品に関する講義が行なわれたのは1900(明治33)年のことであったという。札幌農学校が開校(1876(明治9)年)されて、24年後のことである。
1907(明治40)年畜産学科が設置され、畜産第一講座が誕生し、橋本左五郎先生が担当教授となられ、練乳製造工程中の乳糖結晶化に関する研究を行なわれた。ドイツ流のDairy Technologyの流れを汲んだ橋本教授のもとで、里 正義先生がscientificな側面を担当し、technologicalな側面は宮脇 富先生が受け持たれて成果をあげられたことが記録に残っている。学制上、東北帝国大学農科大学の時代のことである。
1918(大正 7)年北海道帝国大学が独立し、畜産学科の中に皮革製造学講座が設置され、里 正義先生がその担当教授となられた。そして、第一講座は宮脇 富先生が教授として担当された。しかし、乳および乳製品の研究に関する上記の潮流は依然として両先生によって引き継がれていた。1937(昭和12)年、宮脇 富先生は肉製品研究室を建設し、現在の食肉科学研究室の基礎を確立された。かくして講座は二つの研究グループにより構成されることになり、乳および乳製品は前野正久先生、肉および肉製品は橋本吉雄先生がそれぞれのグループの中心的存在となって活躍された。
しかし、橋本吉雄先生は戦時召集され、研究・教育は中断を余儀なくされたが、無事にお戻りになられた。畜産学科畜産食品製造学講座教授となった橋本吉雄先生は、食肉及び食肉製品の研究ばかりでなく、食肉産業・食肉業界に対しても多大な影響力を有し、その指導力は今日の我が国の食肉産業隆盛の礎となったといわれている。橋本吉雄先生が始められた凍結肉に関する研究に端を発する食肉タンパク質に関する研究分野が、その後の畜産食品製造学講座の主要テーマとなって分化・発展してきた。
尚、講座担当教授は、1966(昭和41)年の橋本先生の停年退官に伴い、安井 勉先生が担当され、安井 勉先生が停年退官された1989(平成 2)年から1999(平成11)年まで高橋興威先生が担当され、1999(平成11)年4月から2009(平成21)年4月までは服部昭仁先生が担当された。2010(平成22)年4月からは西邑隆徳先生が担当され、現在に至っている。この間1992(平成 4)年4月には学部改組に伴い学科名が畜産科学科、講座名は畜産食品開発学と変更された。さらに、1997(平成 9)年4月大学院重点化により生物資源生産学専攻畜産資源開発学講座となり、同講座には畜産食品開発学、酪農科学及び副生物利用学の3分野が所属している。2006(平成18)年には、今までの農学教育に加えて、今日的な問題である、食品の安全性、アグリビジネスの創成、持続的で循環型の生物生産体制の確立等に関する教育するために、学院制度の開設と共生基盤学専攻の設置と時をあわせ、実際の研究に則して研究室名も食肉科学研究室に改めた。
現在、食肉科学研究室は、教授の西邑隆徳博士、准教授の若松純一博士に2名によって教育研究が推進されている。また、この間教育面においては、食肉産業をはじめとする食品産業界あるいは国及び地方自治体における技術者・研究者として多くの人材を輩出しているが、現在も、畜産及び畜産関連産業における高等技術者の育成は当研究室の教育目標の柱であり、卒業後の進路決定へのサポートも研究室の重要な役割であると位置づけている。
2.食肉タンパク質に関する研究の始まり
食肉タンパク質に関する研究は安井 勉、深沢利行両先生を中心に1950年頃から始まった。敗戦(1945年、昭和20)後の何年かは肉の保存や肉製品製造方法についての地域社会からの要請にこたえて、道畜産課、農務課の人たちと一緒になって農村現場や大学の実習工場で肉製品の製造についての講習会や加工実習などを行なう日々を繰り返していたというが、それまでの経験主義的な要素が多かった肉および肉製品の製造技術について、”肉製品製造におけるキュアリングの役割”という課題で科学的な究明に着手された。第一は、キュアリングによって肉の色が赤く固定されるのは何故か?という問題であり、第二は、キュアリングを行なわないと何故肉製品は固まらないか?という課題であった。
発色の問題については、筋肉内の色素タンパク質、ミオグロビンと無機塩との相互作用の追究を通して、比較的安定なタンパク質であるミオグロビンの結晶化やその誘導体の調製などを通じて、ミオグロビンの熱変性メカニズムと変性ミオグロビンのヘム部分と一酸化窒素との結合の可能性を定性的に実証したことでひとまず終止符が打たれましたが、食肉製品の発色機構に関しては、50数年後の現在、若松博士の乾塩漬ハムの発色機構解明という形で研究室の課題として復活している。
3. 筋原線維構成タンパク質と肉および肉製品(骨格筋から肉へ)
食塩の添加なしには肉製品の製造は不可能で、生の原料肉の熱凝固と塩漬肉のそれとは質的に違うのだということには気が付いていた安井 勉、深沢利行両先生は、それが何故であるかを解明しようとした。筋肉は動物が死んでも生きている。すなわち、筋肉中の収縮機械である筋原線維構成タンパク質はその機能を長い間保持している。そして、いわゆる食肉はいくら水で洗ってもその残査に食塩を加えてやれば、ソーセージ原料となりうる。ソーセージを製造するときに約2~3%の食塩を必要とし、アクトミオシンの抽出には0.5-0.6モル(3-3.5%)のNaClまたはKClを主成分とする塩溶液を用いる。この二つを結びつけることによって、タンパク質食品としての肉および肉製品の未知の経験則はすべて科学的に説明されるようになるだろうという仮説に基づき、1956年5月初めのころからこの課題で研究が進められた。アクトミオシンの抽出、ATPの調製から仕事は開始された。よく知られているように、1950~60年代は、筋肉生理学・生化学の隆盛期であったので筋肉生化学の分野でえられた基礎的な知識を”生筋”とは異なる原料肉の、あるいは肉製品製造工程における条件という非生理的環境下で、筋原線維構成タンパク質に適用してみるという試みが実行に移された。
アクトミオシンやミオシンの熱、凍結・融解、乾燥、pHなどに依存する変性の様式が次第に明らかにされる一方、筋肉からのタンパク質の選択抽出の結果から、筋肉構成タンパク質群中のミオシンを抽出すると、肉製品の製造は不可能となることがわかり、ミオシンこそが肉および肉製品の品質を左右する決定的役割をもつタンパク質であることが明らかにされた。これらの研究は、安井 勉先生と、九州大学に転出された深沢利行先生を中心にしておこなわれたものであり、安井 勉先生は1989年日本農学賞を受賞した。以来、約50数年間、当研究室では非生理的環境下にある筋肉細胞としての食肉を筋肉構成タンパク質の分子レベルで研究してきた。
4.熟成に伴う食肉の軟化機構
1989年、定年退官された安井 勉先生に代わって教授に就任された高橋興威先生は「熟成に伴う食肉の軟化機構」の解明に取り組んできた。この研究のきっかけは、1960年代初頭に、研究室に新しい鶏の屠殺処理装置が入り、その試運転をかねて、ブロイラーチキンを数百羽も大量処理した。一度に加工処理はできないので、一部を使用して、残りは冷凍しておいた。深沢利行先生は、かねがね単一サルコメアの調製法に興味をもち、筋原線維から単一サルコメアの単離を試みていたが、普通の兎骨格筋を用いては成功することができなかった。その彼が、冷凍室に山積みされたブロイラーチキンの中の一羽を解凍して、その胸筋から筋原線維を調製してみると、これから調製された筋原線維は、バラバラに切れて、単一、二連、三連のサルコメアとなっていた。そこで、従来の方法に若干手を加えてほとんど単一サルコメアばかりからなる懸濁液をつくることに成功した。顕微鏡でのぞきながら、これにMg-ATPを加えると、この筋肉収縮機械の形態学的最小単位はみごとな”すべり”を起こして縮んだ。”単一サルコメアの調製と、そのATPによる収縮”と題された小論文は、早速、国際誌Biochim. Biophys. Actaに投稿され、きわめて短時間のうちに印刷公表された。
しかし、本当に冷凍しなければならないとすれば、いつでも冷凍チキンを用意しておかなければならないわけで、なぜ冷凍鶏からうまく単一サルコメアがとれたのか?そこで、すぐその原因調査がはじめられ、その結果、凍結は主因ではなく、要は鶏が死後硬直を起こした後、それが解除するまで待てばよいのだということがわかり、哺乳動物の場合も同じで、兎や牛からもどんどん単一サルコメアがとれるようになった。高橋興威先生はこの仕事を、”死後筋肉の軟化現象(硬直解除)”という食肉の科学の分野で古くから未解決であった大問題の解明のための大きな突破口とした。現在、この筋原線推から単一サルコメアを生ずる現象は小片化と呼ばれ、食肉の軟化現象の一主因として世界的な常識となっている。高橋興威先生の下でこの現象の解明に取り組んだ大学院生服部(前教授)は、死後筋肉における筋原線維の小片化がカルシウムイオンによって誘起されることを発見した。これを契機として,筋肉の死後変化に関する研究は、牛肉、豚肉および鶏肉の軟らかさに関与する筋原線維、中間径フィラメントおよび筋肉内結合組織の全てを研究対象として精力的に続けられた。その結果、以下のような熟成に伴い筋原線維の構造が脆弱になる4種類の現象を発見した。すなわち、1)筋原線維の構造単位であるサルコメア同士を連結しているZ線の構造が脆弱になり、容易に切断されて小片になる。2)筋原線維のタンパク質・パラトロポミオシンを発見し、それによって、アクチンとミオシン間に形成された硬直結合が脆弱になる。3)太いフィラメントをZ線に繋いでいるコネクチンが2つの断片に開裂する。4)細いフィラメントの構造を保持しているネプリンが断片化する。さらに、デスミン分子が重合して形成している中間径フィラメントはZ線の周囲を取り巻き、隣り合う筋原線維を連結するとともに、細胞膜に結合して筋原線維を保定しているが、食肉の熟成中に、中間径フィラメントがデスミン単分子に脱重合することを発見した。これらの現象の原因を追究した結果、全てに共通して、0.1 mMのカルシウムイオンが関与していることをあきらかにした。このカルシウムイオンの作用に対する酵素の関与を完全に排除することは困難であるが、高橋興威先生は本課題の成果に基づき独自のカルシウム説を提案した。すなわち、熟成中の食肉においては、生体時の約2,000倍に相当する0.2 mMに上昇した細胞内のカルシウムイオンが筋原線維や中間径フィラメントの構造を形成しているタンパク質や脂質に結合してそれらを可溶化するために構造が脆弱になり、食肉の軟化をもたらすというものである。本仮説は食肉研究分野において全面的に認知されているものではないが、高橋興威先生は本研究課題で1999年日本農学賞を受賞した。
安井 勉先生を中心として遂行されてきた食肉の加工特性をタンパク質分子のレベルで解明しようとする研究、その後の高橋先生を中心として追究されてきた熟成に伴う食肉の軟化機構に関する研究は、いずれも筋肉生理学・生化学での成果を食肉科学の領域に取り入れ、食肉科学における長年にわたっての未解決な課題の解決の突破口となるものであった。現在の当研究室の研究課題も先達の成果を踏襲するものであるが、さらに、最近の分子生物学や発生学等の学問領域における著しい進歩を背景として、21世紀が抱える食肉科学分野の課題を解決すべく新たな課題にも挑戦している。