正電荷を持ち自転している原子核は核磁気モーメントをもち、一種の磁石とみなすことができる。強い静磁場中(外部磁場中、サンプルをマグネット中に入れた状態)では核は傾きかけた独楽のように歳差運動をするようになる。試料全体についてみれば歳差運動の位相はでたらめで、正味の磁化の向きは歳差運動の軸の方向となり、それ以外の方向の磁化はない。
静磁場中で磁化の向きは静磁場と同じ向きか逆向きにそろう。エネルギー的には、静磁場と同じ向きのほうが低く若干安定であり、この向きになっている核のほうが少し多い。そして静磁場と同じ向きと逆向きの間のエネルギー差(ゼーマンエネルギー)は核の置かれた状況によって異なる(ケミカルシフト)。
核は、上記エネルギー差と同じエネルギーを持つラジオ波を与えられるとそのエネルギーを吸収する。そのときのラジオ波の周波数は歳差運動の速さと等しく、これがNMRの共鳴周波数である。
静磁場中に置かれたサンプル中のあるひとつの核に共鳴する周波数のラジオ波を照射すると、放出されたラジオ波シグナルを観測することができる。このとき照射するラジオ波の周波数を連続的に変化させて、得られたシグナルを記録していけばNMRスペクトルが得られる。この方式の装置をCW-NMR装置と呼ぶ。
これに対し、FT-NMRでは観測核の共鳴周波数範囲のあらゆる周波数成分を含んだラジオ波(パルス)を与える。放出されるのは特定の周波数を持って減衰するラジオ波の重ね合わせ(FID, free induction decay)となる。これをフーリエ変換(Fourier transformation)という数学的な処理によって横軸が周波数のスペクトルに変換する。さらにTMS=0としてこれより左を正とした周波数を観測周波数に対してppmで表したのがケミカルシフトである。
いろいろなNMR測定法は、ひとつ以上のパルスを適当な時間をおいてかけ、FIDを取り込む。これをパルスシーケンスと呼び、下のように横軸を時間とした絵で示す。
使われる記号や図形は微妙に異なることがあるが、論文の本文や図の脚注に記されている。RDはrepetition delay、PD(pulsing delay)などとも呼ばれ、Brukerの場合D1が使われることが多い。長方形はパルスを、三角形はFIDをあらわす。これをはじめから何回か繰り返して、FIDデータを積算する。
先に述べた磁化(↑)の動きを見てみる。空間的な位置を表すのに、磁化の位置に3次元の座標をおく。
パルスをかけている間、磁化はx軸を中心に回転させられる。これをxパルス、または、パルスの位相がxなどと言う。yパルスなら、磁化はy軸を中心に回転させられる。z軸方向を向いていた磁化がちょうどxy平面上に乗るまでに必要なパルスの長さを90度パルスという。
ここでパルスをやめると、磁化は歳差運動しながら定常状態(z軸方向を向いた状態)へ戻っていく(縦緩和)。この様子をx,y軸に投影してみると振動が減衰していくように見える。x,yの2軸は、歳差運動の回転方向(位相)を知るために必要である。FIDデータの取り込みは完全に緩和するまでではなく適当に切り上げる(2秒くらい)が、次の積算のための最初のパルスの前に、RD時間置いてある程度定常状態になるのを待つ(数秒)。
xy平面上で歳差運動を見た場合も、他の分子の同じ核でわずかに歳差運動の速さが異なるために正味の磁化はぼやけ、減衰していく(横緩和)。
今後は動きの様子を見やすくするため、着目している核の歳差運動と同じ速度、同じ方向に回転する回転座標系を導入する。実験室座標系に対し、観測者が磁化の歳差運動といっしょに同じ速度、同じ方向に回転して観測する、つまり、歳差運動はなく静止しているように見える。回転座標系では、パルスをかけた後の磁化は回転することなくゆっくりとz軸方向へ戻っていくように表される。
これまでは、磁化がxy平面に達するまでパルスをかけており、これを90度パルスという。パルスの長さをパルス幅、パルス長と呼び、磁化を回転させる角度や実際の時間(μ秒)であらわす。パルスの長さを1/3にすると、磁化は30度しか倒れず、これを30度パルスという。このとき観測できる磁化はxy平面に投影された磁化(赤→)のみであり、90度パルスの時の1/2となってしまう。しかし、定常状態に達するまでの時間は短縮されるので、RD(繰り返し時間)を短くして次々と積算を重ねることが可能となり、一定時間に得られるデータとしては有利になる。このため通常測定のパルス幅には30度程度を用いている。
1H-NMR通常測定で問題になる点は殆どない。納入時に用意されたパラメーターを使って測定して結果が得られないことはまれであるが、実際に問題になりそうな点をいくつか上げる。
言うまでもなく、すべての測定に必要な要素である。ピークの対称性、すその立ちあがりなどが良好か確認する。特に1H-NMR通常測定ではTableからカップリングを読んだりするので、シムが悪くてピークトップが割れたりしているのは論外である。
通常用意されたパラメーターに設定された範囲外にシグナルのある化合物もまれにはある。たとえば水素結合した水酸基が16ppm付近に出ることもある。測定範囲外にシグナルがある場合、それは折り返しシグナルとなってあらわれる。
折り返し方は、測定範囲(図、黒い四角)はみ出した部分(赤い四角)がスペクトルの反対側から出てくる場合(図左と、紙を折り曲げて重ねたように出てくる場合(図右)がある(機種の観測方法に依存する)。折り返しピーク(赤)は位相が合わないのが特徴であるが、ケミカルシフトが離れていたりブロードだったりすると位相が合わないことに気づかないこともある。
下図は3-O-メチルケルセチンの重アセトン溶液の1H-NMRスペクトルである。12.8ppm付近に出るはずの水素結合した水酸基が折り返して-0.7ppm付近に出てしまっている。このような時は観測幅を広くして測定しなおす必要がある 。
パルス幅は通常、納入時にセットされたパラメーターに正しい値が入れてあるが、プローブごとに値が異なる。また、チューニングがずれているとパルス幅もずれる。しかし、1H-NMR通常測定では90度パルス幅を間違えて仮に2倍の値(180度パルス)を用いてしまっても、観測パルスはその1/3を使っており、60度パルスになるだけである。通常スペクトルの質には大きな影響を与えない。後述するデカップリング差スペクトルでも同様である。パルス幅が重要なのはコンポジットパルスによる溶媒消去、NOE差スペクトル、NOESYやCOSYなどの二次元などである。また、1Hパルス幅がずれていると13C通常測定のデカップリングが利きにくくなる(後述)。