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第5章 生物集団の進化
5・1 生物の集団とは
前章では、生物の個体が単独で示す行動について、そのいろいろなパターンが、自然選択に基づいた適応進化の考え方からどのように説明されるかを見てきた。この章では、個体の集合である生物集団で見られる行動についてとりあげ、それらが自然選択に基づく進化の観点から、どのように説明できるのか見ていくことにする。
一言に「生物集団」というが、集団の意味は様々である。話を先に進める前に、この章で扱う集団とはいったい何を指しているのかをはっきりさせておこう。前章でもしばしば集団という言葉を使ってきたが、それは、ある地域に生息する、遺伝子を交換する可能性のある同種生物の集まり、という意味だった。そのような集団(遺伝子交流集団)を念頭に置いているからこそ、その内部で、ある行動を示す遺伝子型の適応度に基づいてその行動の集団内での増減を考えることに意味があったわけだ。抽象的な言葉ではわかりにくいので、一つの遺伝子交流集団とは、ある種類の通貨(円なら円)が流通している人間の集団、と考えるとイメージがつかみやすいかもしれない。通貨を遺伝子、人の財布を生物の体と考えると、遺伝子交流集団がどんなものか理解できるはずだ。もちろん、通貨の場合は同じ貨幣や紙幣が人々の間を動いて行くわけだが、遺伝子は直接同じものが生物体間を移動するわけではなく、コピーされた同質の遺伝子が受け渡されることになる。このような集団内では、ある個体と別の個体の間に直接の接触がなくても、同じ祖先から由来する遺伝子をそれぞれが所有することがありえることになる。
では、この章で扱う「生物集団」は、遺伝子交流集団とどこが違うのだろうか。この章では、生物の集団行動の進化に焦点を当てるので、所属する個体が互いに作用しあうような集団を考えることになる。集団内の個体が互いに相互作用しあうことで、集団全体の振る舞いがある機能を持つようになる。その結果、そのような機能を持つ集団に参加することに適応的な意味が生じ、そこで進化が起きることになる。では、そのような生物集団の行動を見ていくことにしよう。
5・2 小魚や鳥はなぜ群れれるか
夕暮れの空に、数百羽の鳥が一群となって飛び回っているのを見たことがあるだろうか。あるいは、海や湖などで、小魚の大群がひと固まりになって移動しているのを見たことは。彼らは密集した群れを作っており、先頭が移動する方向に群れ全体も移動したり、ある個体が反転すると他の個体も一斉に反転したりするから、群れ内の個体は明らかに互いの行動を意識しており、自覚的に群れでいることを選択していると考えられる。しかし、彼らは常に群れで行動するわけではなく、鳥は朝になって餌場へ行くときはバラバラになるし、小魚も成長してしまえば大きな群れは作らなくなる。では、彼らはなぜ一時的にでも「群れれる」のだろうか。考えられている答えは「捕食者に食われる危険性を低くするため」だ。それでは、なぜこのように考えることができ、現実のデータはそれをどの程度支持するのかをみていこう。
ある生物にとっての捕食者とは自分を餌にしている肉食生物のことである。捕食者に食われれば死んでしまうから、捕食者の攻撃を回避することは、自分の適応度を大きくあげることになる。したがって、群れでいることが捕食者回避に役立つなら、群れでいようとする行動は容易に進化するはずだ。ではまず、捕食者が存在するとき、本当に群れをつくったほうがいいのかどうかを見てみよう。
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図5・1を見ていただきたい。これはメダカほどの小魚であるグッピーの群れの大きさをいくつかの小川で測定し、すんでいる川の捕食者の多さの順番に並べたものである。一瞥してわかるように、捕食者が多い川ではグッピーの群れの大きさも大きくなっている。どうも捕食者がいるときには群れでいた方がいいらしい。それはなぜだろうか。直感的に理解できる例を出そう。あなたが寂しい夜の裏町を歩いているとする。そのとき突然、ナイフを持った強盗に襲われる。当然あなたは金品を奪われ、下手すると命までも危ないだろう。だが、もし2人で歩いていたときに強盗に襲われたらどうだろうか?2人でいれば強盗は襲わない、なんてことは言わないで考えてみてほしい。あなたは必ず金品を奪われてしまうだろうか?当然答えはノーだ。ナイフ強盗は、一度に1人にしかナイフを突きつけることができないから、被害に遭うのはあなたかもう一人のどちらか一人だけである(まさかあなたはもう一人が金を奪われる間、じっと待ち続けたりはしないでしょうね?)。もうおわかりだろう。他個体と群れを作っているだけで、自分が捕食者にやられてしまう確率は確実に下がるのである。捕食者は一度に一個体しか襲えないからだ。したがって、群れが大きければ大きいほど自分が襲われる確率は低くなる。このことだけから、捕食者がいるときには、群れていることそのものがよいことであることがわかる。
次に、図5・2を見ていただこう。これは、地上で餌をあさっている様々な大きさのハトの群れをタカが襲ったときに、タカがハトを捕らえるのに成功したかどうかを観察した結果をまとめたものである。図5・2aは、ハトの群れの大きさを4段階に分けたときに、それぞれを襲ったタカの攻撃成功率をあらわし、図5・2bは、それぞれの大きさのハトの群れが、タカに襲われたとき、タカがどの程度の距離まで接近したときに回避行動をとったかをあらわしている。図5・2aからは、群れが大きくなるとタカの攻撃成功率そのものが低くなることが読みとれるので、ここでは、群れでいることの効果が、単に自分に対する攻撃確率を下げるにとどまらないことが示されている。なぜ、群れでいると攻撃成功率そのものが低くなってしまうのだろうか。そのメカニズムにヒントを与えるのが図5・2bの結果である。この図は、群れの中のハト数が多くなると、タカがまだ遠くにいるときに回避行動をとれることを示している。結局、ハトは群れでいるときはより遠くにいるタカを発見することができ、すばやく回避行動をとれるために補食を回避できるのだと考えられる。では、なぜ群れでいるとより遠くのタカを発見できるのだろうか。それを理解するには、ハトの警戒行動がどのようなものであるかを知らなければならない。
ハトは地上で餌をあさっているときに、ときどき首をあげて上空を見る。このときに、彼らは捕食者が近寄ってきていないかを確認するのだ。このような警戒方法を取るハトが1匹だけでいるときには、餌を拾っている間にタカが攻撃を仕掛けても、次に頭を上げるまではタカを発見できず、タカの接近を許してしまうことになる。しかし、2匹以上のハトがまとまって行動し、各個体がランダムな間隔で警戒行動をとるとすれば、群れ全体として警戒不可能な時間は、群れが大きくなればなるほど短くなる。なぜなら、群れが十分大きくなれば、いつでもどれかの個体が必ず頭を上げていることになるからだ。上記の観察で、ハトの群れが大きくなればなるほど回避行動の開始が早くなったのはこういう理由だと思われる。つまり、自分が警戒してなくても他の誰かが警戒しているから、群れ全体での警戒効率がアップするのだ。しかし、ここで一つの疑問が生じる。群れの各個体は自分の適応度を下げてまで群れ全体の警戒効率をあげるために警戒しているわけではなく、あくまで自分の生存率を上げるために群れに参加しているにすぎない。自然選択は個体の適応度をあげるような行動に有利に働くからだ。とすれば、全く警戒行動をとらないような個体が群れの中に入り込めば、その個体は、群れでいることの警戒効率の上昇の利益を享受しながら、同時に餌拾いに専念することで警戒している他の個体よりも高い適応度を得ることができることになる。ハトの中で警戒する戦略と警戒しない戦略では、警戒しない利己的な戦略が有利になり、警戒しない「いかさま」師が増えていってしまう。群れの中でただ1匹だけが警戒するときでさえ、他のいかさま師たちは警戒の効果を享受できるから、「まじめ」に警戒する個体より適応度は高い。最終的には、すべての個体が警戒しない個体ばかりになってしまうはずで、実際に見られるハトの群れのようにはならないはずである。しかし、実際のハトは警戒するわけだからこの推論はあたっていない。では、どうしていかさま戦略が侵入してこないのだろうか。おそらく、ハトたちは「となりの個体が警戒しているのを見たときだけ、自分も警戒する」という戦略をとっているのだ、と考えられている。ハトがこのような戦略を採用しているとき、自分以外のすべての個体が警戒しないハトなら、自分も警戒しないので群れ全体が警戒しなくなる。しかし、このときですら、群でいることによって、自分が攻撃される確率を下げるという効果は期待できる。また、1個体でも警戒する個体がいれば、警戒するハトのとなりも警戒し、そのまたとなりも警戒するという具合に群れ全体が警戒するようになり、捕食者を早く発見できる効果も加わり、補食回避の効率はさらに高まることになる。
また、群でいることは、自分がねらわれる確率を下げ、捕食者を早く発見すること以外にもメリットが考えられる。捕食者にねらわれたときに獲物が抵抗することはよく観察されることだが、群れ全体で捕食者を攻撃すれば捕食者が補食に失敗する可能性はより高まる。襲われる側が、何らかの理由により襲われた場所を離れられない場合は、この集団による防衛の効果がより顕著に現れる。実例としては、カモメなどの鳥が繁殖のために営巣するときに狭いエリアに密集した巣を作ることなどがあげられる。このような場合、ねらわれるのは卵であるから親鳥は巣を放棄して逃げてしまうわけには行かない。しかし、集団営巣する種では、襲ってきた捕食者を群の複数メンバーが攻撃する事で補食を失敗させる確率を高めることができる。
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逆に、群でいることは捕食者に発見される危険性を高めることにもなる。しかし、いくつかの研究は、群れは確かにより多くの捕食者を惹きつけるが、補食回避の効率が高まる結果、群れでいることのメリットの方がより大きいことを示している。しかし、自然選択の原理からはこれは当たり前のことである。群れでいることのデメリットの方が大きい種では群れを作る性質は進化しないので、現在、群れを作っている種では群でいることのメリットの方が大きくなければおかしいからだ。
以上あげてきたように、補食を受ける生物では、補食回避のために群れでいることはメリットがおおく、それが被食者が集団を作る性質を進化させたと考えられる。では、補食する側には集団化することによるメリットはないのだろうか。次節では、補食に限らず、生物がエネルギーを獲得する場合に考えられる集団化のメリットと、その結果生じる縄張り防衛の問題を考える。
5・3 集団化による資源獲得効率の上昇と縄張りの形成
動物が餌を獲得する場合にも、単独で行動するより群で行動した方が有効と考えられるときがある。ここではそれらのいくつかを紹介しよう。
まず最初は、動物が他個体についてまわり、自らの餌獲得効率を上げる場合だ。このような例は共同営巣する鳥などで見られ、餌獲得に失敗した個体が他個体と共に行動することで餌のある良い場所を発見するというものだ。結果として鳥は群で行動することになるが、もちろん、各個体は自分の餌獲得効率を少しでもよくしようとしているわけで、群れ全体の利益を最大化するように行動しているわけではない。いうなれば、この例は一種の寄生関係である。よい餌場を知っている個体がそうでない個体に寄生され、持っている情報を利用されていることになる。もちろん、純粋に餌獲得だけ考えれば、情報を持っている個体は、そうでない個体についてこられない方がいいのかもしれないが、情報を持たない個体に発見されずに出かける有効な方法はないし、群れで採餌する事は補食回避の効果もあるので、あえてついてくる個体を振り切ることの方がデメリットが大きいのかもしれない。
つぎは、1匹では利用できない餌資源が複数個体で共同することで利用できるようになる場合である。たとえば、ライオンやオオカミなどは、群れで狩りをすることで、1頭ではとらえることが不可能な大型の獲物をとらえることができる。また、肉食動物では、数頭の個体が共同して獲物の群れから1匹だけを分離させて補食する。図5・3にその一例を示す。これは魚のアジの1種の補食行動について示したものだが、群れで採餌した方が1頭で採餌するより個体あたりの餌獲得数が増えている。
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最後は少し特殊な例だ。植物など、成長し続けるものを餌として利用する場合、一旦ある場所で餌を食べたのち、餌がある程度回復するのを待ってから再びその場所を訪れないと十分な餌をとることができない。このような場合、他個体が自分より先にそこへ戻ってしまうと餌がなくなるので、餌場の防衛が可能なら、縄張りを作って他個体を排除した上で定期的に餌場を回るのが得策になる。しかし、何らかの理由により餌場の防衛が不可能なときには、全個体が一群となって各餌場を一定間隔で回るのが得策となる。このような場合にも群れができると考えられる。実例は少ないが、湿地で生活するヨーロッパのガンの1種の採餌行動などはこのケースに当てはまるのではないかと考えられている。観察の結果では、彼らは群れを作り、正確に4日ごとに同じ採餌場所に戻ってくることがわかった。また、彼らの餌場は頻繁に水没するので縄張りを作って防衛することの意味はないと考えられる。
以上のように、動物が採餌をする場合でも群れを作った方が有利な場合や、結果として群れができてしまう場合があるが、忘れてはならないことは、群れで採餌する場合、他個体と餌をめぐる競争が必ず存在してしまう、ということである。従って、採餌の群れが進化するためには群れを作ることの利益が潜在的な競争の不利益を上回る効果がある場合のみに限られる。
5・3 親による子の保護
多くの動物では、親は子供の保護をいっさいしない。昆虫や魚などの多くは卵を生んだら生みっぱなしである。しかし、人間を始め一部の動物では親が子供を何らかのかたちで保護する行動が見られる。このような親とその子どもの集まりもれっきとした生物集団である。この節では、親による子の保護のいくつかの例を紹介し、そのような行動がなぜ進化するのかについて考えてみることにしよう。
5・3・1 なぜ保護しなければならないか
繰り返しになるが、個体にとって適応度を低くするような形質は、自然選択に不利なため進化しないと考えられる。したがって、子どもを保護するという行動も保護する個体の適応度を高めているはずだ。では、いったいどんなときに親は子供を保護した方がよくなるのだろうか。
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5・3・2 魚、鳥、ほ乳類の子の保護
鳥やほ乳類が子どもの保護をすることはよくご存じだろうが、魚も?と思った方もいるかもしれない。確かに多くの魚は子どもの保護などしないが、少なからぬ数の魚が、卵を守ったり、生まれたばかりの子魚を口の中にいれたりして保護する習性がある。また、そのような魚の多くが、子供の世話をするのはオスだけだという点で、我々がよく知っている鳥やほ乳類とは違っている。魚による子の保護の実際だが、たいていの場合、生みつけられた卵をオスが保護し、水流を送るなどして卵が酸欠にならないよう世話する。子魚が孵化した後は、子魚たちが餌を食べているときはすぐそばで警戒し、外敵が近ずくとすぐに子魚を口の中に含み保護する。こうして、子魚がある一定の大きさに成長するまで親魚は世話をし続ける。極端な場合、親魚は子魚を保護している間は何も餌をとらないことすらある。
一方、鳥やほ乳類では子供の世話をするのは圧倒的にメス親である場合が多い。1部の種では両親が共に世話をし、オスだけが子育てを行う種はごくごくわずかしかいない。また、鳥やほ乳類の子どもは魚に比べてはるかに未成熟な状態で生まれてくるものが多く、魚の保護が子を補食から守ることが主目的らしいのに対し、鳥やほ乳類では世話をしないと生育しないがゆえの保護であるらしい。実際に、子を保護する鳥やほ乳類では、ほぼ100%子どもに対する給餌が行われる。では、なぜ魚ではオスが、鳥やほ乳類ではメスが、保護の主体となるのだろうか。
5・3・3 オス、メスどちらが保護しなくてはならないか
人間のばあい、両親が共に子を保護するタイプの動物なので(家庭によってはそうでないかもしれないが)、多くの動物で片親しか保護を行わないのは奇妙なことのように感じるかもしれない。しかし、どの親が保護をするのかという問題は、個体の適応度を高める行動のみが進化する、という観点から見ると非常に合理的に説明される。この場合、個体はオスであれメスであれ、自身の適応度の最大化を目的とするので、自分自身はできるだけコストのかかる保護をやらない方がいい。その前提で各子育てのタイプを見ていくことにする。
まず、両親ともに保護をする場合だが、これは人間を例に考えてみれば理解しやすい。人間の子どもは非常に未成熟な状態で生まれ、成長も遅いため、かなりの長期間、親が保護しなければ生きていくことができない。人間の子どもがここまで未成熟な状態で生まれてくるのは、これ以上成長してから生まれようとすると頭部が産道を通過できなくなるからだといわれているが、他の高等な猿と比べてもけた外れに未成熟な状態で生まれてくる。ともあれ、このような未成熟な子どもは保護する親にとって非常に手のかかる存在であるため、母親は子どもへの給餌や排便の世話などで手一杯になってしまい、自分のための食料を外へ取りに行くなど不可能になってしまう。こうした場合、もし父親が食料調達などの面で母親に協力しなければ、母子ともに餓死する結果となり、父親も適応度を低めてしまう。もちろん、オスは子どもがメスの手だけで育つのなら母子を捨てて次のメスと子をなした方がいいが、もしそうしても、すべての母子は死んでしまうわけだからいやいやながらも最初の母子の世話をする以外に選択肢はない。鳥でもほ乳類でも状況は同じと考えられ、両親がともに世話をしなければ子どもの生存率が極端に下がる場合にしか両親による保護は進化しないことになる。
次に、鳥やほ乳類で片親だけが世話をする場合だが、ほ乳類では例外なくメスが、鳥ではごくごく少数の例外をのぞいてはメスが子の保護に当たる。これらの種では基本的に片親だけで子が育つのだから、オスメスどちらが育てても良さそうであるのに、なぜメスなのだろうか。第一の理由としては、これらの動物は体内受精であり、受精から子が生まれるまでにタイムラグがあるため、その間にオスがメスを捨てて去ってしまえる、ということがあげられる。子供が産まれてしまえば、どちらかの親が世話をしなければ子は育たないのだから、オスにとってはコストのかかる子育てを押しつけられるより前に逃げ出して別のメスと新たな子供を作った方が適応度を高くできる可能性がある。一方、メスにとっては、オスがいなくなってから生んだ子どもを捨てれば適応度はゼロだから、しかたなく子どもを育てる方がましになる。この理由は、特に鳥の場合をよく説明する。第2の、そしてほ乳類に特有な理由は、両親の給餌能力の不均衡だ。ほ乳類の子どもは成長の初期段階で母乳という特殊な栄養素を必要とする。母乳にはただ栄養が含まれているだけではなく、子どもの生命保護に有効な免疫物質など、子どもの生存率を上げることができる多くの物質が含まれている。この母乳は、ほ乳類のメスしか出すことができない。ということは、オスのみが子の保護をしても、結局子どもは死ぬので、オスが単独で子を保護しようという行動は決して進化できない。逆に、メスは子を捨てて逃げても結局子は死ぬので、オスに育児を押しつけることができないのだ。結果として、ほ乳類では片親だけが保護する場合、メスによる保護が進化することとなったのだろう。ではなぜオスは母乳を分泌しないのか、という問題は別の問題になる。おそらくその答えは、ほ乳類の祖先では体内受精ゆえのメス単独による保護がすでに成立していたため、子の保護の必要のないオスには母乳分泌機能が進化しなかったということだろう。
最後にオスが保護する魚の場合である。魚の場合は子に対する給餌はしないから、給餌能力の不均衡は考えなくてよい。従って、受精形式が第一の要因になる。ご存じの通り、魚のほとんどは対外受精である。魚のような液体中での対外受精の場合、オスはメスの卵が確実に産卵されてから放精しないと精子が拡散してしまうため、確実に卵を受精できない。従って、鳥やほ乳類とは逆に、メス側に先に逃げるチャンスが生まれる。このことが、保護が必要な場合、オスが担当する結果につながっていると考えられる。もう一つの理由としては、魚では、保護をしないことが祖先の形質であったと考えられるので、その時点で、メスは持っている余剰エネルギーのすべてを卵生産に使うように進化していたと考えられる。一方オスは、精子形成には卵生産ほどにはエネルギーが必要でなかっただろう。従って、保護の必要な状況が生じたとき、受精後に保護のための余剰エネルギーを持っていたのはオスのみであったと思われる。魚ではオスによる保護が多いなのはこのような理由によるものと考えられる。
ここで再確認しておいていただきたいことは、子供の世話といった、人間から見れば当たり前のような形質でも、世話をすることでの適応度上の利益が損失を上回る場合にのみ進化するということであり、誰が子の世話をするのかという問題についても、あくまでオス、メスの各個体はその個体自身の適応度を最大化するように行動する、ということである。つまりは、家族のような、人間にとっては根元的な集団でも、構成個体の行動は集団の利益を最大にするようにはなっておらず、あくまで個体の適応度が進化の通貨になっていると考えられる。ひとことで言えば、動物が集団を作るのは、集団を作らないと、各個体が適応度の上で損をするからである、という自然選択の原理はやはりはたらいているといえるだろう。
5・4 社会性の進化 - 自分で子を生まない性質はなぜ進化できるか
さて、前節では、両親のどちらが生んだ子どもの世話をするかという問題を考えたが、この節では「自分の子を生まない」という性質が進化することがあり得るか、ということを考える。適応度の指標として生んだ子どもの数が使われたりするくらいなのだから、子を生まなければ適応度は当然ゼロである。はたして、適応度ゼロの、自分の子どもを生まない、という性質を持つ生物などいるのだろうか?話の流れからしても当然いるのである。
その代表格は、ハチやアリだ。彼らの生活は一般の人にとってもなじみ深いものだろう。典型的なハチやアリでは、最初、交尾を済ませた1匹のメスが単独で巣を作り始め、巣ができるとメスは卵を産みつけ、孵った幼虫を育てていく。ここまではふつうの動物の生活とあまり変わりはない。大きく違うのはここから後だ。子は成虫になると他の場所へいって巣を作ることをせずに、母親の巣に居残る。そして母親が生んだ他の子どもたちの世話を、母親になりかわってするのである。子どもが次々と成虫になっていくと、母親は子供の世話をしなくなり、産卵に専念するようになり、一方、子どもたちは自分の卵は生まずに、母親が生む卵の世話に専念するようになる。そして巣が大きくなっていくと、交尾をして新しい巣を作るオスとメスが出現し、巣から飛び立ってゆく。ここでは、集団をつくっている個体が、次世代を生む個体と、自らの子は生まずに世話だけする個体にはっきりと分かれている。これを繁殖に関する分業という。また、同居している個体間で繁殖の分業があり、子を生まないものが他個体の適応度を高めるような生活をしているような動物を「真社会性」を持つ、といっている。
今では真社会性を持つ生物は結構知られるようになっており、ハチ、アリの他にも同じく昆虫のシロアリやアブラムシ、木材穿孔性の甲虫、ほ乳類であるハダカデバネズミ、海産の小さな甲殻類であるワレカラなどで繁殖分業の存在が知られている。また、ハチ、アリの仲間だけで真社会性は11回独立に進化したと考えられている。つまり、動物全体では「子を生まない」という適応度ゼロであるはずの形質が、知られているだけで十数回も進化していることになる。適応度が高いものが進化するのが自然選択の帰結なので、真社会性の進化は自然選択では説明できないのだろうか?
この問題には自然選択説の提唱者であるダーウィンも気づいており、社会性昆虫の不妊のワーカーの存在は自らの自然選択説の最大の脅威になるかもしれない、と著書「種の起源」の中で述べている。しかし、1960年代になってイギリスの生物学者ハミルトンによって、自らは子を生まない性質も自然選択によって進化し得ることが理論的に証明された。それは、複製体としての生物が複製している実体は何か、ということに注目することで可能になった。
生物は子どもを生む、というかたちで自己複製を行っているが、生物体そのものを複製するわけではなく、自らの持つDNAを複製し卵子や精子に分け与えることで、次世代に自らの持つ情報を伝えている。そして、DNAの中に含まれる遺伝子が発現することによって、子どもの新たな体が作られていくのだ。そうすると、生物が複製して次世代に伝えているものはDNAであるということになり、適応度は本来、ある個体が生涯に複製して次世代に伝えたDNAのコピー数として表されることになる。実際には、適応度はある個体が残した個体のうちで繁殖可能年齢まで生存した子どもの数として測られているが、これが次世代に伝えたDNAのコピー数を表す指標として使えるからである。
さて、真社会性を持つ動物では、子を生まない個体は親の子(つまり自分の兄弟姉妹)を養育している。兄弟姉妹は自らが持つDNAと同じDNAのコピーを親経由で一定の確率で必ず持っている。従って、ある個体は自らは子を生まないで兄弟姉妹を養育したとしても、兄弟姉妹が繁殖すれば自分が持つDNAと同じコピーを次世代に伝えることができることになる。ただし、兄弟姉妹が自分と同じDNAを共有する確率(これを血縁度という)は1以下なので、自分が繁殖をあきらめた場合に兄弟姉妹の繁殖がこの損分を埋め合わせてあまりあるほど多くなければ自己繁殖の放棄は進化できないことにもなる。わかりやすくいえば、人間のような2倍体の生物では、子どもと兄弟姉妹への血縁度はどちらも1/2なので、自分が繁殖をあきらめて兄弟姉妹の繁殖を補助したときに、彼らが補助を受けないときの2倍より多く繁殖に成功すれば、補助した個体は自分で子を生むよりも多くのDNAのコピーを次世代に伝えたことになり、自然選択に有利になるといえる。
この原理は、自らの持つDNAのコピーが血縁者経由で次世代に伝わるので「血縁選択」と呼ばれており、血縁選択で適応度の指標となるのは自らの直接の適応度だけではなく血縁者経由の間接的な適応度も含むので、両者をあわせて「包括適応度」という言葉が当てられている。ただし、単に血縁に由来するDNAの共有個体の適応度をすべてカウントしてしまうと包括適応度はいつでも無限大になってしまうので、あくまでも、繁殖を犠牲にする個体が直接相互作用した血縁個体だけの適応度をカウントしなければならない。こうして、ダーウィンにとっては難題であった真社会性の進化も、自然選択説のもとで説明することが可能になった。もっとも、ダーウィンの時代にはDNAはおろか、遺伝子の存在すら発見されていなかったのだから、彼がこの問題に答えを与えられなかったのは無理からぬことであった。
また、真社会性は単数倍数性という特異な性決定様式を持つ生物群に非常に多く見つかっているが、血縁選択説はこのこともうまく説明することができる。単数倍数性とは、受精卵がメスになり、未受精卵がオスになるような性決定様式のことで、このような様式のもとでは、1回交尾の母親の娘は兄弟と姉妹に対する血縁度が等しくなくなる(図5・4参照)。このような状況下では、繁殖せずワーカーとなる娘が次世代の繁殖に参加する兄弟姉妹のうち、血縁度がより高いほうの性を多く育てることができれば、自らが繁殖を犠牲にしたときに兄弟姉妹がどれだけ多く繁殖しなければならないかの閾値が2倍体生物の場合より低くなるので真社会性が進化しやすい、と考えられる。また、やはり真社会性が複数回進化しているアブラムシの仲間では、真社会性が発現する世代は単為生殖によって無性的に増殖するので兄弟姉妹との血縁度はすべて1であり、だれが繁殖しても同じこととなり、やはり真社会性は進化しやすい。それ以外の2倍体生物では、真社会性はシロアリとハダカデバネズミでわずかに2回だけ進化したと考えられており、真社会性が進化するためのハードルが低い生物ほど真社会性が数多く進化しているということがいえそうである。もちろん、個々の生物群については、血縁選択が働いているとしたらどのような現象が観察されるはずか、という予測はたてられておりその検証もなされているが、多くの場合、真社会性の進化に血縁選択が重要であったという結果がえられている。
ともあれ、真社会性の進化は個体の中に存在する遺伝子を選択の最終単位として考えたときに自然選択説からよく理解できるが、実際に選択が作用するのは遺伝子の表現型としての個体である。真社会性動物のように集団で相互作用を持ちながら生活する動物では、これと似た関係が、個体とコロニーの間に生じることがある。たとえば、社会性昆虫ではコロニーの維持に必要な様々な労働が個体の間で分業されており、それぞれの仕事をコロニー内の各個体にどのように分配するかで、コロニー全体の労働効率が変わってくる。そのような場合、コロニーの労働効率を最大にするような最適な分業比が存在することになり、それを実現したコロニーはそうでないコロニーより時間あたりの生産量が大きくなり、構成個体の適応度が高くなる結果、自然選択によりそのような分業比が進化する。この場合、実際に選択が働くのは集団の属性である分業個体の比に対してであるが、選択の単位となるのはそのような比を実現する個体の行動であり、ひいてはその行動をもたらす遺伝子である。このように、自然選択には階層性と呼ばれる構造が見いだされることもあるが、あくまで、複製子の適応度を高くするような形質のみが進化し、複製子集団の全体の増殖率が高くても、個々の複製子の適応度が下がるような形質は進化できない。社会性昆虫の分業比でも、コロニー全体の効率の最大化が、コロニーを構成する個体の適応度の増大につながるので進化できるのである。だからこの場合でも、やはり進化の単位は個々の複製子であって集団全体ではない。このことはこの本の中で何度も繰り返し述べているが、適応進化における最大の誤解の一つが「個体の適応度ではなく、集団(=種)の増殖率を高くような行動が進化する」ということであり、社会性昆虫のコロニーなどもそういった間違った例としてあげられていることも多いのであえて確認しておく次第である。
5・5 コミュニケーションの進化
以上に述べてきたように、動物の世界では様々な形で「群れ」としての生活が進化している。そこで、この章の最後として、2個体以上の動物が出会ったときに見られる、個体間のコミュニケーションと、それに用いられる信号の進化について考えることにする。
動物個体間には様々な信号の発信受信と、それに基づくコミュニケーションが見られる。また、種によって、同じ内容のメッセージを伝えるための信号が全く異なる様式である場合も多い。たとえば、ホタルは夜行性の昆虫であり尻の部分を発光させて同種個体間で信号のやりとりをするが、発光パターンは種によっても雌雄間でも異なるので発光パターンは飛び回るオスが同種のメスを識別するのに用いられている。一方、同様に夜行性の昆虫であるガの仲間では、やはりオスが飛び回ってメスを探すが、その際にメスが自分の所在を知らせるために出す信号はフェロモンと呼ばれる化学物質であり、いわばにおいによるコミュニケーションが行われている。また、コオロギやセミでは音によるコミュニケーションが行われているし、チョウでは羽の色とその配置により信号を発信している。ここでは同じような意味を持つ信号の種間での多様性を知ってもらうため、あえて昆虫の例ばかり出したが、このような事情は他の動物でも大同小異である。音やにおいなど、信号のタイプによる性質の違いを表5・1にまとめておくので参照されたい。
さて、なぜ信号はこのように多様なのであろうか。また、信号もまた機能的であるが故に自然選択をうけ、適応進化しているはずであるが、信号の進化に見られる一貫した傾向はあるのだろうか。信号の進化には2つの選択圧が関わっていると考えられる。一つは、信号を発する種の個体がおかれた生態的制限要因であり、もう一つは信号の受け手がどのように反応するかという行動的要因である。生態的制限要因とは、その動物がどのような場所に住んでおりどのような生活をしているかによって、信号にかかる機能的制約が異なるということである。このような2つの要因は、信号の進化に対してどのような一般的な帰結を導くのだろうか。
まず、生態的制限要因について考える。これは比較的単純な話で、具体例を挙げれば、密林のしたばえの中に住むような動物では相手の姿が見えないため、色やかたちによる信号は効率的ではないので音やにおいによる信号が進化することになる、といった具合になる。また、音による信号はコストが高いが短時間に信号の意味を変化させたりできるが、においによる信号はそうではないので(表5・1参照)、状況による信号タイプの使い分けがおこる。たとえば、大きな縄張りを持つ哺乳動物などでは、縄張りの境界を示すには尿などによる長続きするにおいづけが用いられるのに対して、直接個体が出会ったときのコミュニケーションでは鳴き声や姿勢といったタイプの信号が用いられる。生態的制限要因は種によって千差万別なので、用いられる信号のタイプは種間で、また状況によって実に様々なものになる、という、観察されるとおりの当たり前の結論を導く。つまり、生態的制限要因は、より効率的に機能する信号のタイプが状況によって異なるため、その動物がどのタイプの信号をコミュニケーションに用いるのが有利か、というかたちで選択圧としてはたらき、もっぱら、種間の信号タイプの多様性をもたらす。もちろん、それぞれの状況でどのタイプの信号が用いられるかは、その種の個体のおかれた生態的制限要因のもとで、信号を出すことのコストと信号が伝わる度合いの利得のバランスから見て、もっとも効率的に情報を伝達できるタイプの信号が自然選択で選ばれることになる。
一方、受け手の反応という行動的要因は、送り手が送りたいメッセージが確実に伝わるかどうかというかたちでの選択圧として働くので、信号のデザインの進化をもたらすことになる。たとえば、送り手があるメッセージを伝えたときに、受け手がそれを誤解して別のメッセージとして受け取ったため、送り手が損失を被る可能性がある。したがって、行動的要因が原因となり、信号のデザインはより誤解を受けにくい明確なものになると考えられる。鳥や昆虫で見られる儀式化されたディスプレイや、ほ乳類の威嚇のメッセージなど、極端に誇張された信号のデザインはこのようにして進化してきたものと思われる。もっとも、受け手の行動的要因がいつでも極端な信号デザインを進化させるとは限らない。たとえば、高等な猿類などでは、非常に微妙な身ぶりなどが信号として用いられていたりするので、信号が極端なものになるかどうかは受け手の側の認識能力に応じて決まるのだと思われる。もっとも、いつの場合でも、発せられる信号は受け手の認識能力に応じて誤解を招かないだけの極端さは備えているといえるだろう。
さて、いったん信号によるコミュニケーションが成立してしまうと、おもしろい問題が1つ生じる。それは、信号はいつでも正直なのか、という問題である。つまり、信号によるコミュニケーションが成立しているときには、「うそ」をついた方が有利になるという局面が生じることがあり、そのような場合の信号の進化はどうなるのかという問題である。では、「うそ」をついた方が有利になる状況にはどんなものがあるのだろうか。1つは「自らの強さや性的魅力などの身体能力をアピールする信号」によるコミュニケーションが成り立っている場合である。このような場合、信号の受け手は「より強い」個体に対して縄張り防衛をあきらめたり、「より性的魅力の高い」個体と交配したりするため、本当は弱かったり、魅力のない個体がうまく「うそ」をつくことができれば大いに有利になる。そして、このような状況は種内の別個体間で生じやすい。もう1つは「自らの危険さやまずさをアピールする信号」が普及している状況である。こちらはハチや毒ヘビなどが非常に派手な色彩をしていたり、味のまずいチョウが目立つ斑紋を持っていたりするような場合である。そして、こちらの場合には「うそ」をついて得をするのは別種の個体なので、種間関係的な状況になる。
まずは身体能力に関する「うそ信号」の進化について検討することにしよう。この手の「うそ信号」にだまされてしまうと、信号の受け手はかなり損をすることになる。具体的には、縄張りを失って食料を得られなくなったり、本当は大したことのない相手とつがってしまい、自らの適応度を減らしたりするわけである。従って、このような「うそ信号」に対しては、うそを見抜ける個体の方が見抜けない個体より適応度が高くなるから、うそを見抜く能力が受け手の側に進化することになる。また、信号を出す側から考えると、正直な信号を出す個体はうそをつかれてしまうと、自分が信号を出すのにかけているコストが無駄になるため、うそをつかれやすい形質を信号にしていることは不利になってくる。その結果、うそをつきやすい形質を信号にする個体は自然選択に不利になり、なるべくうそがつけないような形質を身体能力を表す信号として用いているような個体が自然選択で進化することになる。実際、自然界を見ても、身体能力を表す信号には体や角の大きさなど、実際にコストをかけないとそれを大きくできないようなタイプの信号が用いられている。つまり、「強い」ことを表す信号には実際に強くなければ持ち得ない形質が使われているのである。これは性的魅力を表す信号でも同じだと考えられるが、こちらの例は第6章で取り扱う。結論として、身体能力を表す信号の進化では、一時的に「うそ信号」が進化することはあっても、うそがはびこることで、正直な信号を表す形質そのものが変わっていき、最終的にはうそのつけない形質が信号として採用されることになるため、正直な信号のみが残ることになる。逆に言えば、うそをつける形質は、身体能力を表す信号としては進化的に安定ではあり得ないということになる。
では、「危険さやまずさを表す信号」はどうだろう。ご存じの通り、アブやカミキリムシの一部の種は、全く無毒なのに、ハチにそっくりな色彩をしている。また、まずいチョウの持つまずい化学物質を全く持たないのに、まずいチョウにそっくりなチョウの存在もたくさん知られている。このような「そっくりさん」はモデル種に擬態することで補食を免れているという利益を得ている。こちらの場合には「うそ」はたくさんはびこっていることになる。何が違うのだろうか。これらの擬態を示す動物はほとんどが、昆虫や小爬虫類であり、彼らの捕食者(=信号の受信者)は鳥や爬虫類である。もし、これらの捕食者が、モデルと擬態種の微妙な差を識別できれば擬態は無効であるが、実験によれば、鳥ではモデル種のパターンをすぐに学習してそれを避けるようになるが、そのような個体に擬態種を提示してもやはりそれを避けることから、識別能力はあまり高くないらしい。また、当然モデル種のパターンの進化の方が先なので、そこに擬態種が混じって行くことになるが、理論的な解析ではこのような状況でも、モデル種+擬態種の全集団中のある程度の割合モデル種が存在すれば鳥はそのパターンを避けるだろうことが予測されている。そうであれば、モデル種にとって擬態種が擬態を行うことはある程度までは自らの適応度の低下をもたらさないことになるうえ、もし、モデル種の中のある個体のパターンが変わった場合、その個体は捕食者の学習パターンからはずれるので補食されやすくなり、パターンを変えた個体の適応度が下がるという効果もあり、2重の意味でモデル種のパターンが変わるような進化はおこりにくいことになる。つまり、身体能力の場合と異なり、信号をうそのつけないタイプに進化させるような選択圧が生じにくいため、こちらの場合はうそがはびこる結果となるのだと考えられる。一言でいえば、「危険さやまずさを表す信号の進化」では、モデルが「うそ」に対して寛容なのだといえよう。
以上見てきたように、複数個体の動物が相互作用を行う場合には、そこには様々な信号を用いたコミュニケーションが見られる。そこには、単独で生活する個体が出会ったときの威嚇の信号のようなものから、社会性昆虫のコロニー内の各個体の行動の統合に用いられる化学物質によるものまで、様々なものがあるが、このような信号も機能的なものであるからには、それを発する複製子の適応度を最大にするような適応進化の帰結として存在しているのだということを確認するとともに、動物の集団行動が、いかに信号とコミュニケーションによって支配されているかということもご理解いただきたい。
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