第6回札幌GMO対話フォーラム |
日 時: 2007年8月3日(金) 13:30〜16:30 会 場: コープさっぽろ北12条店 組合員活動本部 主 催: 遺伝子組換え作物対話フォーラムプロジェクト 共 催: コープさっぽろ組合員活動部 参加者: 16名(講師含む)( PJより3名) 総数19名 進 行: 13:30 開催挨拶(コープさっぽろ、吉田) 13:35 山口さんスピーチ 15:00 質疑応答 15:18 休 憩 15:25 意見交換会 16:45 終了 話題提供 山口裕文さん 大阪府立大学 要旨 遺伝子組換え作物(GMO)に関する初期の問題点は、食べて安全かどうかということであった。しかし、生物多様性条約(1992)とカルタヘナ議定書(2000)以降、生物多様性とのからみもあり、安全、安心という問題だけではなくなってきた。国がGMO導入に失敗した原因のひとつは、説明不足と勉強不足であったと思う。また、人心のありていを忘れていたこともある。これまで育種家は新しい品種を導入する際には、社会的要請にあわせて、あるいは社会的な要請を作りながら、要請に応じられるよう準備をしていた。しかしGM品種に関しては、社会のニーズを読んで対策を立てることを忘れていた。「消費者はこんなもの」という奢りもあったのではないか。さらに、民族や食文化などの違いがあるにもかかわらず、アメリカ流の説明を日本でそのまま使おうとしたことにも原因がある。 作物の作られる田畑は栽培植物と雑草とわずかの野草からなる人為的に作られた(農業)生態系である。これに対し自然生態系である森林は野生の樹木、灌木、つる、草本からなっている。この2つの生態系をくらべてみると、水田でのイネは森林の林冠構成種、雑草は林床植物にあたるが、GM問題ではこのような生態系の成り立ちは認識されていない。また、人為的に作られた田畑で「普通にやっていたら何事も起きません」という話を聞くが、これはすべての人間が過ちを犯さないという大前提のもとに語られている。人は、自分たちで生態系を作り、そのなかで得た食物を食って生きている。その生態系の中にGMOをもってきたらどうなるかは、考えておかねばならない。GMOのような新しいものを使うと、生態系全体が変わるのは当然である。 栽培種にはそのもとになった野生種が存在する。また、それらの中間的な特徴をもつ雑草(系統)がある。栽培種と野生種は、種子の脱粒性や休眠性、毒やとげの有無、大きさなどに違いがある。栽培種とそのもとになった野生種を対比してみると、学名も異なる場合がある。互いに交配して子孫ができるような生物学的には同じ種といえるものが違った学名で扱われていることもある。種が違うとは、雑種ができないということで、通常、違う種になるには20万年くらいかかる。栽培植物の栽培種と野生種は、分かれてから約1万年しか経っていない。特徴が大きく違うために違う種と扱われている。逆に、遺伝的な背景が違うのに混同されていることもある。ナタネといっても、いったいどのナタネをさすのか、よくわからないことがある。これは、植物学的な名前と農業上で使われている名前が違っていたり、学名が栽培種の成立を反映せずに決められているために起こっている。何かを議論する時には、言葉の整理から始める必要がある。植物の名前もそうだが、お互いの認識が違っていることが多くある。 GMOが自然生態系や野生種に与える影響については、花粉の飛散とそのもの自身の野生化が考えられる。ここではダイコンとハマダイコンの例を紹介したい。私は1986年にハマダイコンの自生する海岸に栽培ダイコンを植えて、花粉を飛散させる実験を行って、1995年まで動態を調べたことがある。この間に栽培ダイコンの特徴(遺伝子)を持つハマダイコンが最大で十数%みつかった。栽培種のダイコンと野生種のハマダイコンとの間では自然交雑が簡単に起こる。ひとたび花粉で汚染されると、その遺伝子は集団の中に10年くらいは残っていた。このような例をみると、GM品種からの何らかの問題が起きた時、耕地という人造の生態系の中で起こることについては対応できるだろうが、自然生態系では対応できないと思っている。 農作物品種の特徴は「採種」という技術によって維持されている。適切な方法で種子を採らないと自然交雑、病害虫の進化、種子自身の健康状態の悪化などにより、「品種(タネ)の劣化」が起きて作物の生産効率や収量が落ちることになる。「採種」という技術は劣悪な遺伝子を除去し、均一な特徴を保っていく行為である。採種をいい加減にやるとその品種はなくなっていく。採種を止め、その品種が自然界に放り出されると野生化することもある。GMOでの問題は企業や栽培農家がどのように種子を管理していくかである。自家採種での実態をみると、そのもの自身が逃げ出すことや、花粉で遺伝子が広がるのも起こりうる。 日本のオニユリは、墓に花を捧げるという日本人の習慣に伴って、むかごによって全国に広がった。人間の振る舞いをあまり単純に考えてはいけない。私たちはどういう生活文化や習慣をもつのかを考えた上で、答えを出す必要がある。現在の農水省のGMOに対する説明は、性善説に沿って、人間が間違をせず、きちんと振る舞うという前提のもとにしか成り立たない。個人的にはGMOは選択の問題だと思っている。日本人が皆GMOを使いたいと思うなら使えばいいし、生物多様性が大切だと思うなら、そのようにきちんと対応すればいい。どうするかは住民が自ら選ぶことで、科学者が答えを押し付けるようなものではない。こちらでは「使いたい」、こちらでは「いやだ」と言う人がいるなら、「これくらいだったら認めてもいい」という許容範囲を合議で決めるべきではないか。ただ責任のとりようはきちんとしなければならない。大切なのは、論理的説明ではなく、科学的事実に基づく対応である。 |