フフホト滞在記@内モンゴル自治区

 

7月3−9日の6泊7日で中国は内モンゴル自治区へ学会出張した。これまでの海外出張の中でも最も歯ごたえのあるもののひとつとなった。

 

今回の学会は、ルーメン研究会を母体とし、97年からはじめた日韓ジョイントルーメンシンポの新たな展開(中国も仲間にいれて3カ国で開催ローテーションを組む)をみこんだもので、主催は日本、開催地はフフホト(中国・内モンゴル自治区)という変則的な企画である。主催責任者は畜草試の三森さん、現地責任者は金海さん(以前に在畜草試)、それを畜草試の他のメンバーや関連学生がサポートするという体制である。以下に学会滞在した彼の地での体験と印象を忘備録として残す。

 

7月3日(日)

<乗り換え劇>

千歳発、成田行きのANA便は7:45発。手稲の奥に住むぼくは必然的に5時半おきになる。今回の相方はD2の山野君。193cmの彼は人ごみの中でも容易に判別できるランドマークタワーだ。今日になって彼の第二外国語が中国語であることが判明、にわかに心強くなる。成田で海外旅行保険に入り(はじめてプレミア条件ではいる)、いざ北京行きへ乗り込む。

 

ところが出発時刻になっても飛行機は動かない。アナウンスによると朝鮮半島上空の荒天で北京空港着陸便が待機しており、順番待ち状態なため離陸をひかえているとのこと。今日中にフフホトまで入るため北京での乗り換えは2時間程度しかない。乗り換えがあぶないぜこれは。1時間半おくれで成田発。正味乗り換え時間は30分あまりしかない。入国審査や税関などに要する時間を考えればアウトだ。100%観念して飛行機を降りるとすぐそこに中国海外旅行社(近ツリの提携社)の職員が僕と山野の名前をかいた紙をもって待機していた。二人を確認すると、いきなり「走れ!」と目配せする。北京空港の通路を3名が脱兎のごとく走りぬけた。

 

入国審査。クルー用のブースをパパッと通り抜ける。パスポートをちらっとみてハンコおすだけ。ここでほとんどの外国人の列を追い越す。このあとフフホト行きのチケットをうけとる(すでにチェックイン済み)。二人とも機内持ち込み荷物だけだったのも幸いした。税関はなんだかよくわからない職員通路でノーチェック通過。つぎに国内線搭乗口へむかう。この間ずっと走る。6月から週1で手稲前田森林公園でジョギングしてるので助かった。なにもやってなかったら、まちがいなく吐いていた。

 

国内線入り口で、先のJALで着いていた浅沼さんと吉井君(明治大)を追い越す。「なにやってんだよ。早くしないと乗り遅れるぞ!」と発破をかける。また職員用のブースからX線検査をぬけ、フフホト便へのバス(最終案内中)になんとか間に合う。大汗の中国旅行社の彼と握手し、バスへのりこむ。やった!まさか間に合うとは。この間なんと20分。フフホト便はすぐには出ず、数名の遅れた乗客を待っていた。なんとそれらは全員一本前のJALできた日本人という落ちがついていた。

 

フフホトまでは1時間のフライト。かなりの乱気流があったが、無事到着。空港には金海さんがバスで迎えにきてくれていた。今日から4泊する昭君ホテルへ。この町では最高級のホテルのひとつで、山野くんと同室となった。夜はおもだった面子で内蒙古大学の教授たちのお誘いでモンゴル料理をごちそうになった。山野くんはみずから冒険をはかりひとりタクシーで夕食に行った。このへんは行動力があり評価できるところである。

 

モンゴル料理ははじめに楽団(15名程度)がテーブルにきて歓迎の唄をうたい、馬酒をついで回る。その際、右の中指に酒をつけ、頭の上から天にまく。次に自分にまく。そして一気に飲み干す。これが会食の始まり。あとは羊肉を主体とした数々の皿が供された。塩茹でした羊肉が絶品であった。こうりゃんでつくったパイ酎は苦手。丁重に断った。かくして初日の乗り換え劇に代表されるドタバタ出張の幕は切っておとされた。

 

DNA型の街路灯(Denature型のもあった!)     学会会場の昭君大酒店(中日韓瘤胃・・の横断幕)

 

7月4日(月)

<フフホト小探検と再会>

学会は今日の16時から開幕。うけつけデスクやその他の配役きめなどのため14時にロビー集合となった。その時間まで駆け足のフフホト観光にでかけた。山野くんと三重大の松井助教授と徒歩圏にある内蒙古博物館(15元)へでかけた。松井氏とは先月のソウル大訪問につづき行動をともにし写真におさまることになった。1Fにマンモスや恐竜骨格標本、2Fにジンギスカンをはじめとする歴代皇帝の記録、内蒙古自治区の歴史の展示があった。歴史展示では完全に日本は悪者扱いで、これをうちやぶった八路軍の活躍が大々的に展示されていた。空調のない古い建物で、中はかなり暑かった。

内蒙古博物館の恐竜骨格標本(レプリカ)←本物は重くて展示不可能

 

ホテルにもどり、次のいくべき場所をフロントできく。フロントで英語がある程度できるのは、兄ちゃんひとりに、姉ちゃんひとりだ。大召というチベット仏教の寺院にいくことにした。タクシー圏内だが、かえりにボラれないように帰りはホテルの入り口につけ、ボーイに値段をきいてもらうことにした。

 

チベット仏教寺院とその寺町界隈

 

大召(ダージャオ)まで10分。こじきがいっぱいいて、まとわりついてきた。無視してると「ワオー」と大声をあげて威嚇してくる。入場料15元。中国語のガイドがいたがさっぱりわからん。雰囲気だけ味わって外にでた。寺院のまわりには日本で言う「寺町」が発達しており、庶民むけのメシ屋、雑貨屋、骨董屋、屋台などが並んでいた。2−3元(30−45円)程度でメシがくえるので「食ってく?」と相談したが、肝炎などがこわいので「やめましょう」となった。昔はドブネズミの徘徊するクアラルンプールの屋台で平気で飯くってたくせに。歳とった証拠だ。ガタガタのタクシーでホテルにもどり、2Fのレストランで20元の昼飯をとった。午後はいよいよ学会準備。受付の設営、配布物の整理など。そうこうするうちに16時の開会をむかえた。

 

3カ国の代表による基調講演、そのあとレセプション。中央のテーブルに3カ国の主だった人たちと座る。中国の参加者はかなり積極的に(というより強制的に)酒をつぎにくる。ぼくもイリノイ大のマッキー教授(以下ロッド)も応対するのに苦心した。その後別室でnight mixing。ロッドと奥さんのビビアンと3人でワインを飲んだ。イリノイ滞在時のこと、ポスドクで雇ってもらっている小池君のことなど、楽しく時間をすごし、ふらふらで部屋へ戻った。そのまま裸でねてしまう。これが後々悔いをのこすことになった。

ロッド&ビビアンと飲む。

 

7月5日(火)

<風邪ひきと研究発表>

朝起きるとのどの奥に違和感。やばい。風邪ひいた。

朝食はまたバイキングだ。初日は楽しかったが、おかゆにも油、目玉焼きは揚げ卵、野菜も油炒め、と油攻めだ。おまけにコーヒーがない。日本では日に3杯以上のむ自分にはつらい毎日だ。

 

午前中に小林、山野の口頭発表があった。小林は「培養不能菌の生態」を、山野は「野生エゾシカのルーメン菌叢」についてしゃべった。僕のほうはM1の後藤君の仕事をまとめたものだが、IGER(英)のKim氏から方法論を聞かれた。山野はなんとロッドから繊維分解酵素活性について聞かれた。さらに南京農大のZhu教授が採食物をきいてきた。酵素活性について山野は測っておりデータはもっていたのだが、まとめて披露して指針を示すには荷が重かったかもしれない。彼は初めての英語発表で緊張もあったが、全部暗記し、自分のものにしてしゃべっていたため、学生にしてはよくやったといえる。たまに原稿ベッタリの発表をみるが、あれはいけない。情熱が伝わってこない。第一、原稿がなくなったらどうするのだろう?97年にジョイントシンポ発足後、僕たちは学生に英語口頭発表を課してきた。基本姿勢は何もみずにやることだ。頼るものがあれば安心だろうが、それではいつまでたっても上達しないのは歴史が示している。これは中年層にもいい意味でプレッシャーを与えている。学生が原稿なしにやるので、先生も原稿に頼るわけにはいかない。去年うちに滞在してリアルタイムPCRを学んでいったソウル大のSung氏は、当時かかえていたサンプルを全て分析しルーメン菌の付着とpHの関係をまとめて発表した。これはすでに投稿論文としてまとめられており、僕も共著者のひとりに加えてくれている。

 

小林と山野の講演

 

昼食時に3カ国代表者会議をやった。次回の開催地決めと概要の確認だ。ここで綱引きが始まった。中国側は「もっと参加者が増えるから会場を二つにしよう」、韓国と日本側は「1ヶ所の会場で綿密にやり、若手を育てる」というシンポの原点を前面にだすものであった。北京の中国農業大のFeng氏はかなり強硬に主張したが、ソウル大のHa教授が原点確認を繰り返した。僕からもそのように要望を言った。結局は原点尊重を条件に主催者側にまかせることになった。次回2007年は浙江大のLiu教授が主催でやることになった。彼ら中国側は、韓国や日本で開催するときもこのように多数の参加者を送り込んでくれることを期待して・・・

 

今日は朝、昼、夜とホテルの同じレストランで同じバイキングだった。3日目にしてもう飽きた。明治の浅沼さんが出てこないのでどうしたことかと思ってたら、腹を下して寝込んだらしい。やっぱりな・・・ここは硬水だし、いろいろ不安なのでミネラルウォーターを買ってのみ、万一に備え、歯磨きもそれをつかった。でも日本人参加者の多くがこの滞在中に腹をくだした。ぼくは持参のプロバイオティクスを服用しなんとかなったが、浅沼さんは重篤になり、ついに翌日には病院送りになった(点滴を2本うたれたあとホテルで静養となった)。彼と同室の院生吉井君のけなげな看護は感動ものだった。

 

ポスターセッション会場は極めてせまかった。ひととおりみて、廊下にでると、明日発表のユンテ君(ソウル大)につかまった。初めての発表で緊張しているらしく、とにかく誰かにコメントがほしいようだ。彼の研究はルーメン環境の良否を「酸度」を指標にした簡易検討だ。今後の展開しだいで、受け入れの評価も変わるだろう。とにかくリラックスさせるよう配慮した(つもり)。

 

7月6日(水)

<楽しいセッションと社交>

朝は同じバイキングだったので、バナナとお茶ですました。午前中は非反芻動物の別セッション(ソファのある会議室風)で浅沼さんの代役で座長をやった。茨城大の学生浅田君の鯉の腸管内発酵、三重大の松井さんのダチョウの菌叢、北大は上田さんのウマの消化を3題担当であったが、個人的に最も楽しめた。ロッドやクリスも来てくれていて活発な質問がいくつも飛び出し、また松井さん講演中のロッドへの個人的問いかけなどもあり、いい雰囲気で終始した。やはり広い会場より、相手が近く、議論も深まってよい。

 

午後はユンテ君の発表をきき、激励し、ようやく学会もフィナーレを迎えた。夜にフェアウェルレセプションをやった。僕は招へい外国人のテーブルに加わり、会議中、決して席を外さずピンからキリまである講演をほぼ全部聴いてくれた彼らのプロフェッショナルに敬意と感謝を表した。多くの旧友(韓国)や新しい友人(中国)との写真に加わった。ジョン・ウォレス(ロウェット研・英)が元気なかったので問うと、なんと胃腸がすぐれないらしい。ジョンはビスケットとお茶だけで早々に部屋に戻っていった。山野は師匠のいいつけを守り、(選択的ながらも)社交にがんばっていたようだ(写真参照)。

  

浙江大Liu教授グループ&クリス(CSIRO・豪)と         浙江大Liu教授グループ           南京農業大Zhu教授配下の学生たちと

 

ソウル大の知己と                    山野は浙江大のGuo嬢とツーショット 

 

7月7日(木)

<内モンゴル大草原へ>

忙しい朝だった。今日はエクスカーションで見学+大草原ツアー。バスでまずフフホト郊外の蒙牛の工場見学。蒙牛(「もうぎゅう」ではなく「もんにゅう」)は内モンゴル自治区を拠点とする大手乳製品メーカーで、昨年は「中国成長企業」のトップに選出された。元々「伊利」が業界首位であったものの、最近は蒙牛のシェアが加速している。前評判どおり、大規模で洗練された生産ラインであった。ここで約1時間をすごす。

 

蒙牛工場の生産ライン管理室           三森さんを撃沈したマーボー豆腐(マーが利きすぎ)

 

ついで今回のハイライトである三森さん企画の「七夕の夜を過ごす大草原」へ向かう。途中立ち寄ったサービスエリア(?)のトイレは、床が水(?)浸しで、石炭運搬車の運ちゃんが炭で汚れた身体を洗う水なのか、お小水によるものか、判断しかねた。小さな貧しい村をいくつも通り過ぎ、約4時間で目的地99 Springsに着く。ここは文字通り99の泉があるとか・・・短草が地平線まで広がるさまは道北の猿払あたりを連想させたが、規模ではやはりかなわない。バスから降りるとモンゴル式のお出迎え(楽団とお酒)。すぐに羊肉主体の昼食となった。ここで出てきたマーボー豆腐に三森さんが撃沈。トイレにかけこんでいった。ここは海抜2,000m程度だが、体質的に敏感な松井さんは高山病に似た症状で早くもパオ(テント)の中でダウン。

 

その後、乗馬2時間コース(120元)で5kmほど先の集落までいく。招へい外国人をのぞき、ほとんどの日韓出席者がこれに参加した。ウマは北海道和種を思わせるポニーで極めて温順。現地人による引きウマだったが、希望すればトロットやギャロップも可能だ。ウマとその扱い手を見る限りかなり安全なツアーだ。ただおわりにチップを要求された。5元払った。帰着後、ソウル大の女子学生ミンジ、デヨンとしゃべる。二人とも研究がよくできる学生(ミンジが繊維付着菌のPCR定量、デヨンが牛の免疫応答)だが、英会話もかなりのものだ。育ちのいいお嬢さんという印象。その後ホースショーとレスリング。レスリングには日本からは高山病から復活したばかりの松井さん、韓国からユンテ君がでた。松井さんは最初こそいい勝負だったものの、長期戦になり日ごろの運動不足のせいで惜敗。ユンテは現地人のチャンプに見事勝利し、喝采を浴びた。ただ、どうも最後はそういうシナリオなのかも・・・

  

乗馬ツアーに参加               ソウル大・Ha教授夫妻、キム秘書、デヨン、ミンジ    松井さんがモンゴル相撲に挑戦

 

ディナーは羊の丸焼き。おなじみの楽団と馬酒。風邪が悪化しつつあったので、ワインをガバガバ飲んで早めに休んだ。外では脱水症状から復活した浅沼くんのダンスが披露されたようでみなを驚かせたらしいが、見逃してしまった。また板橋会長をはじめ主だった人たちは夜の更けるまで七夕の星空を楽しんだもよう。

 

ヒツジの丸焼き                   このメンバーで同じパオで寝ました

 

7月8日(金)

<脱出という名の帰途>

「朝から2回もトイレいったよ」という湊先生の朝の挨拶。ぼくがトイレにいったらロッドがきた。4月のシカゴ会議では「コバヤシ」「マッキー教授」とお互い呼び合っていたが、今回「ヤス」「ロッド」と呼び合える仲になったのが収穫のひとつだろう。ジョンは胃腸炎からどうやら回復したらしい。羊肉の朝ごはんのあと、羊解体ショーをレストランの裏でやるという信じられないシチュエーション。まず「頚動脈斬り」の残酷なのを見せられる。「キャー」という女性陣。2頭目がモンゴル式の腹腔経由大動脈ちぎり。これは腹に小さい穴をあけ、ここから手をいれ、指先で大動脈を探り、ちぎって腹腔内に大量出血させるやり方。外に一切血がでない。腹腔にたまった血が固まったころに解体するので、凝固した血液は料理に使える。1頭目は2頭目のすばらしさをきわだたせるための対照区だが、朝から見るには重すぎた。きょうもセキと鼻水。

 

板橋会長から提案されていた本執筆の件をロッド、ジョン、クリスに相談。かれらはすでにAJASからレビュー執筆を依頼されているようだが、それとは別件ということで了承をもらった。会長の退官記念をかねているので、あと1年半しかない。その間に執筆者と内容決定、原稿請求、編集(文体他の統一)など仕事が山積だ。このほかHa教授にも了承をとりつけた。

 

バスで一路フフホトへ。ところが時間的余裕があったので途中土産物屋へ寄られた。ツアーの最後ではありがちだが、このおかげで昼があわただしくなった。さらに招へい外国人たちともお別れの挨拶がきちんとできなかった。午後のフライトで帰る日本人はホテル近くのレストランで20元で急ぎのランチ(なんと北京ダック)。ランチよりシャワーを選んだ山野は、見事食いそこねてしまった。空港ではコーヒーショップをみつけたが、ブルマンがなんと200元。韓国グループと同じフライトだった。かれらは北京で2泊するらしくすでに修学旅行気分。機内の新聞でロンドンでの同時多発テロを知る。

 

北京には中国旅行社の出迎えがおり、僕、山野、板橋、農工大のラーマン君、押部さんの5名で市内のホテル京倫飯店にむかう。ここは日航系列のホテルですこぶる快適。フフホトとはくらべるべくもない。シンポに展示をされていた日本全薬の角田さんたち(全薬で作る鉱塩の原料は天津付近の海岸でとる)と夕食をともにする。上海から出店した有名中華の店「阿一海鮮」でコースにはフカヒレやアワビがでてきた。珍味だったのが、アヒルの肢。これは肢そのものが柔らかく煮込んであり、骨まで食える代物。よく冷えたビールで、息を吹き返した。店をでるとスターバックスなどもあり、もはや東京とかわらない。建築途上のビルが数多く、北京の発展は目をみはるものがある。

北京で食った高級料理(左上がしいたけ、右上がアワビ、下がアヒルの肢)

 

7月9日(土)

<生還>

いろいろあったが最終日がきた。まったく絶好調だった山野だが、昨日の夕食でゲリッたもよう。アワビくったからね、山野。貧乏性かい?朝の早いフライトでしかも2時間前に空港につかねばならず4:50起床。ホテルでちゃんとした日本式の朝食バイキング(納豆まであった)をとり、約1週ぶりのコーヒーをのみ、一路北京空港へ。新しい空港で2時間を楽しむ。早々と風邪をひき、本来のアクティブな社交はできなかったが、最低限の仕事(山野の紹介、シンポの方向づけ、本執筆の根回し、旧友との親交、中国の関連研究者との交流開始)はできたかと思う。それにしても疲れた。しばらく海外は行きたくないと思う。・・・だがそれもいつまで続くだろうか。よっぱらった勢いで南京農大訪問や来年の英仏ジョイントシンポ出席の約束もしてしまったし・・・。フライトは順調で、成田到着後羽田まで高速バス、千歳についたのは夜だった。早く刺身が食いたい。